静御前は捨てられた? 愛されていたのは郷御前? 『鎌倉殿』とは異なる“史実”の義経と女たち
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人質としての価値がなかった郷御前を匿い、ひっそり会い続けた義経
義経が九州へ出航した時、どれぐらいの手勢がいたかは詳しくはわかりません。『平家物語』では、義経の船に同乗した味方の数の記載こそありませんが、義経が連れていた「女房」の数だけでも「十余人」とのことですから、かなりの大人数であったのではないかと想像してしまいます。これらの女房はすべて義経の愛人だったと見る人もいますが、仮にそうだったとすると、少なくともその多くと義経は特別な関係だったのでしょうね。都に残していけば、いらぬ詮索を頼朝軍から受けるであろうことを義経は恐れたのかもしれません。
ドラマには登場しませんでしたが、義経は蕨姫(わらびひめ)の通称で知られる平時忠の娘を側室としたという記録が『吾妻鏡』にはあります(文治元年九月二日条)。正室の同意あってこその側室ですから、正室の同意なく懇意になった女性は山のようにいたでしょう。『鎌倉殿』では正室・郷御前(ドラマでは里)と側室・静御前のバトルが描かれましたが、このような諍いは実際にも義経周辺で頻繁にあったのでは……と筆者には思われます。
義経はこのようにモテてはいるのですが、女性たちには驚くような薄情さも見せています。乗っていた船が嵐で破損した状態で住吉の浦に打ち上げられ、九州に逃れるという起死回生策が断たれてしまった義経は、例の女房たちを浜辺に捨て置き、自身はわずかな部下たちと共に吉野山に消えました。「関係があった」程度の女は、彼にとって優先順位が低く、「もう、どうでもいいや」となったのでしょうか。『平家物語』によると、義経に見捨てられた女房たちは、泣いているところを土地の人の手で救われ、都に送り届けられたとか……。
この時の義経が唯一、連れて行こうとした女性が静御前だったといわれますが、この二人の別れもすぐに訪れました。一行が次に向かった吉野山で、義経は静と別行動を取ることを決断したのです。おそらく女の足では急な吉野の山道を移動し続けることが困難と判断してのことでしょう。静は、義経と別れた直後に、鎌倉方の兵に捕らえられてしまっています。ドラマでは比較的あっさりと描かれた義経と静の別れですが、実際にはかなりの紆余曲折があったようです。
静を切り捨てたことが功を奏したのか、吉野山そして京都周辺にも潜伏していたとされる義経一行は、鎌倉方の必死の探索にもかかわらず、なかなか見つかりませんでした。さらにこの時期、義経は、都落ち以前から京都周辺に匿っていたと思しき正室・郷御前のもとにも何度も現れ、“しのび逢い”を続けていたことがわかっています。なぜなら義経の都落ちの翌年にあたる文治2年(1186年)、郷御前が義経の娘を生んだという記録が『吾妻鏡』に出てくるからです。
ドラマの義経は都落ちの際、妊娠中の静御前は置いていき、里(郷御前)だけを連れて行くと宣言し、後で静御前とふたりきりになった際に「里を連れていくのはあれが比企の娘だから。いざという時の人質だ」と説明していましたが、それも史実とはまるで違うのです。確かに郷御前は母方の血筋が比企氏ゆえに「比企の娘」といえるのですが、彼女の父方の河越家は、義経との強い関係ゆえに頼朝から疎まれており、所領が没収されただけでなく、当主と嫡男の命さえも奪われていました。義経が郷御前を連れて逃げたところで、ドラマで説明されたようなアドバンテージはなかったはずなのです。
また、先述の通り、義経は郷御前を京都の周辺のどこか(一説には岩倉あたり)に匿い、そこを訪れていました。そして、彼女が義経の(何人目かの)子を懐妊するほどに愛し合っていたことはわかっています。普通に考えれば妻を実家に帰してもおかしくないような状況でも、義経がそうしなかったのは、郷御前から「もう私が帰るべき家はない」と言われていたからかもしれませんね。頼朝と敵対してしまった義経と、頼朝に家族を殺され、財産も奪われた郷御前の関係は、この時、さらに深まったことと推測されます。
義経といえば、まず愛妾の静御前が思い出されるのは当然のことかもしれません。義経が共に九州を目指して落ち延びようとした相手は郷御前ではなく静御前だったわけですし、次回のドラマでも描かれるであろう、彼女が鎌倉の八幡宮にて奉納の舞を披露した(実際は北条政子の希望で、ほとんど強要されるような形で舞を披露させられた)エピソードや、彼女が義経の子を出産直後に、男子であるという理由で殺されてしまった悲劇など、ドラマティックなエピソードが多く伝えられていますから。しかし、見方を変えれば、吉野山で義経と別れた静御前は「途中で見捨てられてしまった」と言え、義経にずっと守られ、愛され続けたのは正室・郷御前だけであったとも考えられるのです。
その後、激化する一方の鎌倉方の探索の手を逃れるように、義経は上方を脱出、奥州の藤原秀衡を頼ることになりました。郷御前は義経一行とは同行しませんでしたが、『吾妻鏡』によると、文治3年(1187年)2月、彼女は山伏、子供は稚児という扮装で奥州に向かっています。
あらためてここで注目すべきは、文治2年に生まれたとされる娘以外にも、稚児の扮装ができるほどに成長した子どもが、義経・郷御前夫婦の間に生まれていたということです。乳飲み子の女の子は、断腸の思いで誰かの手に託さざるをえなかったのでしょうか。1歳になるかならないかの乳幼児が、寺社に仕える稚児の姿になることはできませんからね。しかし、郷御前も出産からあまり日が経っていない中での長距離移動は身体に堪えたと思われます。それでも義経を追いかけていったのですから、相当な絆が二人の間にはあったと見るべきでしょう。
かくして二人は奥州の地で再会を遂げたと考えられるのですが、その喜びは長くは続かず、夫婦の未来は闇に閉ざされてしまいました。義経が頼りにしていた藤原秀衡が文治3年10月に急死し、後を継いだ秀衡の息子・泰衡は、頼朝から再三にわたってかけられた圧力を跳ね返すことができず、文治5年(1189年)、ついに義経暗殺に加担してしまいます。そしてこの時、郷御前はわが子を道連れにして、義経との死を選んだことが知られています。ドラマの義経と郷御前の描かれ方には、史実の断片から垣間見られるような愛情が通っている素振りはまだ見られませんが、残されたわずかな時間の中で、二人の関係に“変化”は起きるのでしょうか……。
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