大杉漣さんが企画に参加していた犯罪サスペンス 追われし者が「跳ぶ」瞬間を描く『夜を走る』
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若手との映画づくりを望んでいた大杉漣さん
事件をきっかけに、追い詰められていく主人公たちはどこへ向かって走っていくのか。『夜を走る』を9年がかりで映画化したのは、『教誨師』を撮った佐向大監督だ。佐向監督にとって、本作は『教誨師』以来となる4年ぶりの監督作となっている。
佐向監督は、拘置所で最期の日々を過ごす死刑囚をリアリティーたっぷりに描いた脚本提供作『休暇』(08)がきっかけで、拘置所の副看守長を演じた大杉漣さんと懇意になり、新しい映画づくりについて話し合うようになった。そこでやりとりされた企画が『教誨師』であり、『夜を走る』だった。佐向監督に『夜を走る』が制作に至るまでの過程を語ってもらった。
佐向監督「脚本を書いた『休暇』は、宣伝プロデューサーも僕が手掛けていたんです。ある取材の後、僕の自主映画時代の作品を観てくれていた大杉さんから『本当は監督したいんでしょ?』と声を掛けられ、思わず『はい』と答えたのが始まりでした。商業デビュー作『ランニング・オン・エンプティ』(10)に、大杉さんはコンビニの店長役で出演してくれたんです。しばらくして、『うちの役者たちに他の事務所の人たちも交えて、映画をつくろう』と持ち掛けられたんです。それで、その頃考えていた『夜を走る』の原型になったシナリオをつくり、大杉さんに読んでもらいました。その後も大杉さんとやりとりしながら改稿していたんですが、なかなかうまくまとまらなかった。それで大杉さん主演作『教誨師』を先に映画化することになったんです」
本来なら、『夜を走る』が大杉漣さんの初プロデュース作になるはずだった。温厚な人柄で、現場の雰囲気をとても大切にしていた大杉さんだが、40歳のときに北野武監督の『ソナチネ』(93)にオーディションで選ばれるまでは、不遇の時代が続いていた。
大杉さんが役者としてのキャリアをスタートさせたのは、劇団「転形劇場」だった。当時大学生だった大杉さんは、「転形劇場」主宰者・太田省吾氏の「劇の戸口は、追われてきた者がたどりつくところである」という言葉に惹かれ、入団している。閉塞的な日常に鬱屈した「追われてきた者」たちの心情に大杉さんは共感し、『夜を走る』を映画化しようと考えたのかもしれない。
佐向監督「追われてきた者って、いい言葉ですね。僕は成功した人よりも、道を外れてしまったり、誤って犯罪に走ってしまう人に魅力を感じるんです。成功したと思っても、それは失敗の入り口かもしれないし、成功と失敗を繰り返すのが生きているってことじゃないかと思うんです。物語がハッピーエンドかアンハッピーエンドかということにも、僕は興味がありません。鬱屈を抱えた主人公が、鬱屈をエネルギーに換えて、どこまで”跳べる”かを僕は描きたかったんです」
企画が流れることに、すっかり慣れてしまっていた佐向監督は苦笑する。『教誨師』の初号試写に立ち会った大杉漣さんから「『夜を走る』も実現させないとね」と言われたものの、その直後に大杉さんは急逝。本作の企画も消滅した。だが、佐向監督は脚本を大幅に変え、一から企画を立ち上げ直すことになった。佐向監督自身も、追われし者だった。
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