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『鎌倉殿』はどのように描く? 義経“大活躍”の「壇ノ浦の戦い」における虚構と真実

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『鎌倉殿』はどのように描く? 義経“大活躍”の「壇ノ浦の戦い」における虚構と真実の画像1
源義経(菅田将暉)|ドラマ公式サイトより

 次回・第18回のメインとなるであろう「壇ノ浦の戦い」。それがどのように『鎌倉殿』で描かれるかが注目されますね。というのも、我々が「壇ノ浦の戦い」について当たり前のように信じ込んでいるさまざまな逸話は、20世紀になってから作られた“創作”であることも多いのです。今回は史料をひもときながら、「壇ノ浦の戦い」の虚構と真実について検証してみることにします。

 「壇ノ浦の戦い」とは、元暦2年(1185年)3月24日、現在の山口県下関市の壇ノ浦沖にて行われた、日本史上もっとも有名な海戦のひとつです。しかし、奇妙なことに、史料によって合戦が行われた時間帯に大きな相違があります。『平家物語』では、現在でいう朝7時ごろに開戦、正午くらいには平家の敗戦が決定したという説を取り、『吾妻鏡』では開戦時間は記さず、平家敗北を正午ごろとしています。一方で、後白河法皇に義経からの報告書を届けた使者から話を聞いたとする、公家の九条兼実の日記『玉葉』によると、正午ごろに開戦し、午後4時ごろには平家の敗色は濃厚になったというのです。

 この戦いは平家だけでなく、源義経にとっても“背水の陣”でした。『鎌倉殿』第17回でも、源頼朝の承認も得ず、義経が後白河法皇から提案された検非違使(けびいし)――現代風にいうと、罪人を捕らえ、裁く権利も持つという警察官と裁判官を合わせたような役人のポストを受け入れてしまうシーンが出てきました。これによって義経は頼朝の不興を買うことになり、一時的ではあったものの、平家追討の任を解かれてしまっています。しかし、天才軍人・義経の突破力に期待したい頼朝はふたたび、彼を源氏の大将として起用し、壇ノ浦に向かわせたのでした。

 「壇ノ浦の戦い」の1カ月ほど前に起こった「屋島の戦い」(屋島=現・香川県高松市)では、戦がこれからいよいよ始まるという時、海の上の平家方の船群の中から、紅の地に金の日輪が描かれた扇を竿の先に立てた小舟が浜にいる源氏のほうに近づいてきて、舟の上から年若い美女が手招きしてみせた……というエピソードがあります。『平家物語』の名場面として、中学の時の古典の時間でも取り上げられることが多い「扇の的」の場面ですね。

 義経は腹心の部下を通じて、弓の名手・那須与一に扇の真ん中を射抜くように命じ、与一は多大なプレッシャーをはねのけて、扇の真ん中を射抜くという離れ業を見せたのでした。学校の教科書ではそのあたりで終わっているのですが、実はこの場面には“続き”があります。与一の神業を見て「敵ながらあっぱれ」と感激し、舞を踊り出した五十代の“老武士”までが射たれ、殺されているのです。これも義経からの命令であり、それに逆らえなかった与一が彼を射殺したのでした。

 この義経の命令について、源氏方では、その場では歓呼の声を上げる者が目立った一方、本音では「よくやった」という者と「風流を理解していない、残念なことをした」という者で意見が割れた描写も『平家物語』にはあります。『吾妻鏡』など、より信憑性の高い史料には出てこない逸話ではありますが、“空気を読めない”義経の恐ろしさが顔を見せているような気もしますね。

 さて本題の「壇ノ浦の戦い」ですが、開戦当初は、海戦の経験が豊富な平家に圧されがちだった源氏ですが、勝機をつかんだのは、戦の伝統を無視した義経の斬新な作戦にあったとする説と、ある時刻を境に壇ノ浦の急な潮流に大きな変化が起こったからだとする説があります。これらは現代に至るまで多くの創作物で当然のように採用されてきたのですが、研究者の間ではこの両方が本当にあったかどうかは疑わしいとされています。

 特に前者は、実は具体的なソースがほとんどありません。当時の風習では非戦闘員ゆえに攻撃してはならないとされていたにもかかわらず、義経が平家方の船の漕ぎ手(当時の言葉で「水手」「梶取」と呼ばれる)を射殺させたという逸話は、『平家物語』『吾妻鏡』の両方に登場していませんから。

 これは、昭和期のとある大学者が唱え始めた説を、なぜか司馬遼太郎ら歴史小説界の重鎮が次々と採用し、それゆえに“真実”として歴史好きの間に定着してしまった……といわれていますね。おそらくは、「屋島の戦い」で非戦闘員である民間人の家に火をつけたという逸話や、敵の弓の腕前をたたえた老人を射殺させるという先ほどの「扇の的」の逸話などに代表される、義経の「勝つためには手段を選ばない」という冷徹なイメージから生まれた想像上のエピソードでしょう。そして世間の人々も「義経ならやりかねない」と信じ込んだがゆえにここまで広まってしまったのではないかと思われます。

 また、物資などの運搬船ならともかく、戦時の漕ぎ手……それも水軍出身者ともなれば、降ってくる矢から身を守るべく、戸板を盾代わりに使うことなどは当時から普通の戦法としてありました。仮に源氏方が平家の水手を狙ったのが事実だったとして、平家軍の勢いを止めてしまうほどの死傷者が出たと考えるのは難しい気がします。

 ちなみに水手を射殺させる義経の姿は、先日地上波(フジテレビ系)での放送を終えたアニメ『平家物語』にも登場しました。また、このアニメにも、ある時を境に潮流が変化し、源氏方に有利になったという描写が登場しましたが、実は『吾妻鏡』『平家物語』の双方の史料に、潮流の「激変」があったという描写は出てこないのです。

 潮流の変化で平家軍が敗れたという説は、大正3年(1914年)に黒板勝美(当時東京帝国大学教授)が、彼の著書『義経伝』の中で披露したもので、あまりに有名になってしまったために、あたかも真実であるかのように独り歩きしてしまった……というのが実情のようです。そもそも、先述のように史料によって海戦が行われた時間に半日ほどのズレがありますし、海事史の金指正三博士の近年の指摘によると、『平家物語』の記述にあるような激しい潮流はその時期の壇ノ浦ではありえなかった……つまり、潮流が変化したと考えること自体に無理があると考える説も出ており、学者の間でも諸説乱立のようですね。

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