小室哲哉はいかに革新的だったか 「渋谷系」も一目置いた、プロデューサーとしての絶頂期
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渋谷系~クラブ・ミュージック周辺の音楽家が見た小室哲哉
『TK MUSIC CLAMP』に招かれたゲストは多岐にわたる。同時代にメガヒットを収めていたASKA、稲葉浩志(B’z)や、しばしばそのやり取りが(全盛期の小室への苦言・厳しい意見の代表格として)引用される坂本龍一や吉田拓郎といった先輩格、そしてウルフルズのような(当時)ブレイク前の後進のアーティストたちなどだ。こうした面々に混じって、実はクラブ・ミュージックや「渋谷系」と呼ばれたシーンの音楽家・クリエイターたちも多数、同番組に出演している。以下では、小沢健二(’95年5月出演)、PIZZICATO FIVE(同6月)、TOWA TEI(同8月)、小山田圭吾(同9月)のやり取りの中から、いくつか印象的なシーンを紹介したい。
小沢健二は、自身が「強い気持ち・強い愛」などの共作等を通じて交流のある筒美京平を引き合いに出しつつ、ヒットメイカーが「世の中の感じが見えてくる」感覚、「狙って当てること」への憧れを表明している。彼の出演日は9thシングル『戦場のボーイズ・ライフ』の発売日であり、前年に今なお名盤の誉れ高いアルバム『LIFE』をリリース後、1~2カ月置きというハイペースでシングルをリリースしていた時期に当たる。小沢にすれば、「現代のヒットメイカー」そのものであった小室の存在は、率直に興味深いものであったと思われる。
PIZZICATO FIVEとの対談において、小室は海外でのタイアップ獲得やヨーロッパツアー実現など、小西・野宮のワールドワイドの活躍に興味津々であった。小西は小室に対し、海外における自身たちが「オリエンタル」ではない「東京の音楽」として受容されていることを語りつつ、「東京のイメージは小室さんが作っている」「(日本国内で幅広い層に聴かれていくことについて)ちょっと小室さんに相談したいです、本当に」と、彼の活動・影響力を賞賛している。当時の小西は、YMO周辺の音楽家が形作った「80年代の音楽」へのカウンター的な思いを持ち続けており、同時に、時代の波に乗ることや消費されることに自覚的な面もあったとされている。当時の小室のあり方に、どこかで密かなシンパシーを感じていたのかもしれない。
TOWA TEIは、ソロ・アーティストとして活動を活発化させていくにあたり「Produced by t.komuroとかっていう形」の自身のスタイル・ブランドを確立したいと小室に語っている。また、小室の作品について「好きなものも嫌いなものもあるけど」と前置きした上で、「『200万枚売る』と言って本当に売るような有言実行ぶり」をたたえ、「それまでの名ばかりの“プロデューサー”を駆逐してくれたことへのリスペクト」を率直に表明している。一方の小室も、「自分の名前より『プロデュース』という肩書きを世に売り出したいと思っていた。もっと『プロデューサー』が出てきてくれると嬉しい」と語り、小室に先駆けてダウンタウンの音楽活動(GEISHA GIRLS)を手がけたTEIのさらなる飛躍に期待を寄せていたことがうかがえる。
そうした彼の「後進への期待」は、小山田圭吾との対談でも垣間見える。当時、まだハードディスク・レコーディングにほとんど手を出していなかったという小室は、小山田の制作手法に興味津々だったほか、小山田自身やカヒミ・カリィなどのプロデュースワークにおける楽曲タイトルやジャケットデザイン、レーベル「トラットリア(Trattoria Records)」のネーミングに到るまで、彼のセンスに強く惹かれていたという。また、印刷の色稿のチェックなど、プロデュースにおけるクオリティコントロールのこだわりで盛り上がった様子もある。当時、ほとんどのアートワークについても監修を務めていたという小室だけに、小山田のマルチなプロデュース力には大いに注目していたに違いない(余談だが、それゆえに翌年リリースされた小山田のリミックスアルバム『69/96』において小室がリミックス依頼を断ったという噂は事実であれば残念でならない)。
なお、小室は女性シンガーの楽曲を作詞する際、しばしば渋谷を意識していたことを後年語っている。「渋谷で起きているような、もしくは起きていそうな恋愛、渋谷に似合う言葉、渋谷の香りなど、渋谷を歩いて五感で感じるすべて」を投影させた楽曲は、前述の小西康陽の言葉にあるように「東京のイメージ」を形作り、日本中へと受け入れられていった。その小西らを括る「渋谷系」という呼称は、HMV渋谷店をはじめ、渋谷に集積する外資系CDショップ周辺の発信によって流行したポップ・ミュージックを大雑把に指す表現であり、ミュージシャン本人たちのあずかり知らぬところで発生した分類であるが、そうした渋谷系周辺に位置付けられる音楽家たちと、渋谷という街に極めて自覚的に制作に励んだ小室とが、それぞれ世間的に大きく注目を集めていた時期に多数の対談を行なっていた事実は注目に値する。
そうした対談で何らかの形で話題に上がっていたのはやはり、大旋風を巻き起こしていた「WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~」(’95年3月)であった。世界的にもオーバーグラウンドでメガヒットが出ていなかったジャンル「ジャングル」を全面に押し出した楽曲で、売上200万枚超という記録的ヒット。小室は「ジャングルを世界で初めて100万枚以上売ったプロデューサー」として、同ジャンルの本場であるイギリスのサブカルチャー誌『i-D』でも特集されるに至った。ダウンタウンという当時の芸能界における「時代のアイコン」的存在のパワー、および坂本龍一・TOWA TEIらを交えたダウンタウンの「先鋭的な音楽活動」であった先述の「GEISHA GIRLS」の前例を抜きにしても、この実績は“小室プロデュース”における一つの金字塔として、今後も決して色あせることはないだろう。
こうして小室は「WOW WAR TONIGHT」前後からヒットの量産期に入り、翌1996年にかけてプロデューサーとしての絶頂期を築いていく。一方、それより以前はtrfをさまざまな音楽的表現の実験の場としていたことはあまり知られていないかもしれない。次ページでその点について具体的な楽曲を挙げて触れていきたい。
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