宇多田ヒカル『BADモード』 “越境”するベッドルーム・ソウルを読み解く
#宇多田ヒカル #TOMC
R&Bとエレクトロニック・サウンド、双方の最高到達点
本作の多くの楽曲で見られる、贅肉を削ぎ落としたマシンビートに多重コーラスのループが次々に絡んでいくスタイルは、マーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」(‘82) のヒット以来、R&Bではスタンダード化したスタイルだが、今作は宇多田のヴォーカル自体が「リズムの主軸」となる瞬間が度々訪れる。
例えば「Time」や「Pink Blood」は特徴的なズレ・キメや休符を持つリズムトラックを持つ楽曲だが、ヴォーカルはそのアクセントの前後を自在に行き来するため、リズムトラック以上にグルーヴの中心を担っているように聞こえる。あたかもヴォーカル録音後にリズムを組み立て直したかのような錯覚を覚えるほど、ヴォーカルにオケ全体が引っ張られ、グルーヴさせられているかのような凄みがある。ディアンジェロ『Voodoo』(‘01)以降、広く世に知られるようになったビートの「揺らぎ」「モタり」「ズレ」といった要素を、宇多田はリズムトラックでなく、あたかも自身のヴォーカルを中心点として生み出そうとしているかのようだ。
また、先ほどA・G・クックの項でも触れたが、本作は全編でプログラミング段階からの共作体制が敷かれたことも作用してか、音数が客観的なジャッジのもとで選び抜かれ、適切に絞り込まれているように思える。それでいて、リヴァーブ・パンニングが巧みに施されることで密室的な息苦しさ・緊張感は感じさせず、外部にひらけていくような開放感も併せ持っている。シンプルな音の層を柔らかく積み重ね、音響に細心の注意を払ったプログラミング・サウンドに、強い人間味――R&B方面とは別の意味での“ソウル”を感じさせるヴォーカルが乗るというあり方は、宇多田がかつてフェイバリットに挙げていたグラスゴーの伝説のグループ、ザ・ブルー・ナイルを思わせるところもある。
このように、本作はデビュー以来のR&B的な側面、『Exodos』以降のエレクトロニック・サウンドの側面の双方で格段の強度を備えた作品だ。とはいえ、冒頭の「BADモード」はレオ・テイラーの生ドラムを軸にした――米音楽メディアのピッチフォークからは「シティポップ」とも称された――スティーリー・ダンにも通じる高密度のポップミュージックであり、決して一面的な見方では読み解けないアルバムとなっているのがまた素晴らしい。
さまざまな“境界”を越えていく『BADモード』
本作は宇多田のキャリアで初の「バイリンガル」アルバムだと位置付けられている。ごく当たり前に日本語・英語いずれも用いて生活を送っている宇多田自身にとって、これまで「Utada」名義などで言語を分けて作品を発表してきたことは不自然だと気づいたことから、制約を設けることをやめたのだという。
この「バイリンガル」性は、タイトルの表記にアルファベットとカタカナを織り交ぜていること、および冒頭「BADモード」の発音――「BAD」は破裂音を強調した英語調で、一方の「モード」は「ド」がはっきりと発音される日本式の発音であることからも明確だろう。また、日本語版(「キレイな人」)があるにもかかわらず英語版の「Find Love」が本編に採用されたのは、資生堂のグローバルキャンペーンに後者のほうが使用されていることも大きかったと推測されるが、言語に拘らないことへの主張と見ることもできそうだ。
以前の宇多田は、音楽の制作工程で「自分がやりたいこと」をうまく説明することができなかったという。そして、それを言葉にする練習や、共同制作の経験を積んでいく中で、音楽そのものが「共通言語」であるという思いに行き着いたのだそうだ。なお、宇多田は2018年、かつて「Automatic」(‘98)の歌い出しの独特の譜割りを指摘された際のことを振り返り、「『?? だって音楽じゃん? 言葉?』ってなった」というエピソードを披露し、また「音楽が第一言語」という発言も残している。これらを踏まえると、キャリア初期から一貫している宇多田の「音楽こそが共通言語であり第一言語」というスタンスが真の意味で結実した作品が『BADモード』だと言えるかもしれない。
加えて重要なこととして、宇多田は昨年インスタライブ上で、自身がノンバイナリーであることを公表している(そのため、本稿では「彼女」という三人称は用いていない)。ノンバイナリーとは、自身の性について男性・女性という単純な分け方に当てはまらないと感じる性自認・性表現のことだ。それを踏まえた上で本作を聴き返すと、本作の「君」や「You」に向けられた愛情表現が、特定の性に留まらない多様な慈しみ・労り・親愛に満ちていることが見えてくる。この点でも、本作は見えない“境界”を越えていくような深みを持っているように思える。
本作は、UKオフィシャルチャートでは週間ダウンロードセールスのランキングでアルバム部門83位(1月21日付)を記録したほか、辛口で知られるピッチフォークでもスコア8.0(10点満点中)という好評価を得ている。なお、つい忘れがちだが、宇多田は2010年、当時「Utada」名義での海外進出をサポートしていたレーベル、Island Def Jamが無断でベストアルバムのリリースを強行したことを期に「Utada」名義を封印し、今後は全世界で「宇多田ヒカル」名義で活動していくことを明言していた。海外市場といかに渡り合うかという、ある種の気迫に満ちた「Utada」名義の作品とは異なる、自然体の想いが込められた作品が世界のリスナーを惹きつけているさまは痛快だ。
本日は『BADモード』のCDがリリースされ、4月末にはLPでの発売も控えているが、早くも次回作が気になる人もきっと多いことだろう。改めて、今後の活動から目が離せない。
本連載「ALT View」は次回、1990年代の日本の音楽市場を席巻した大物プロデューサーについて、主にサウンドやアレンジの観点にフォーカスしながら掘り下げていきたいと思う。
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本稿で紹介した楽曲や、その他『BADモード』の理解の手助けになりそうな楽曲をまとめたプレイリストをSpotifyに作成したので、ぜひご活用いただきたい。
B’z、DEEN、ZARD、Mr.Childrenなど……本連載の過去記事はコチラからどうぞ
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