渋沢家の後継者という“宿命”から逃れた嫡男・篤二と、逃げられなかった孫・敬三
#青天を衝け #渋沢栄一 #大河ドラマ勝手に放送講義
祖父・栄一に拝み倒され、学者の夢を諦めた敬三
敬三は学生時代から学者肌で、若い頃は生物学者になりたいという夢を抱いていたそうです。しかし、これを憂いた渋沢栄一は(正装にあたる)羽織袴姿で敬三に土下座し、「拝み倒しで、とうとう彼(=敬三)を実業家にしてしまった」とか。このエピソードが掲載された『父 渋沢栄一』の著者・渋沢秀雄(=渋沢の四男)も、渋沢から「拝み倒し」をされ、文学者になる夢を諦めて実業界に入ったといいます。
秀雄いわく「父(=栄一)は人の意思を尊重するタチの人だったが、子孫の職業に関する限り、決して時代より先を歩いていた人ではなかった」のだとか。渋沢栄一の中では、渋沢家、もしくはその縁故につながる男子は、すべて実業家になるべきであり、それ以外の進路は望ましくなかったようです。
『青天を衝け』でも、渋沢は学問好きだったと描写されてきました。また、彼の漢詩の一節が『青天を衝け』のタイトルにもなったわけですが、『論語』をはじめとする「四書五経」など古来の学問ならともかく、近代的な「文学」や「生物学」といった学問に対し、渋沢の理解や知識はまったく足りていなかったのでした。文学者になりたがった息子の秀雄には、「実業家になってくれ。どうか文学は趣味の程度にとどめてくれ。ワシが頼むから、是非そうしてくれ。ワシも若いときお父さんの意思にそむいて家を飛びだし、こんにちに至ったが、今でもそれを心苦しく思っている」などと情に訴えて頼んだそうです(『父 渋沢栄一』)。
渋沢は夏目漱石などとも“同時代人”でしたが、記録的なベストセラーだった『吾輩は猫である』にリアルタイムで接することもなく、70代の頃は「つまらない」と言っていたのに、90代を迎え、文学好きの秀雄に朗読してもらって初めて「面白い」と感じたのだとか。実業家として生きぬく一方、仕事(と女性)以外に興味関心がなく、大金を稼いで広大な家屋敷に住んではいるものの、晩年になればなるほど質素な生活を好む一方だった渋沢は、少なくとも「趣味人」ではありませんでした。
ちなみに、昭和の時代に博覧強記の知識と耽美的な感性で活躍した文学者・エッセイストの澁澤龍彦は、渋沢栄一の親戚筋の家の子どもにあたる人物です。龍彦の幼少時代、渋沢はまだ存命で、渋沢に抱かれた龍彦はおしっこを漏らしてしまったそうですが、仮に成人後の龍彦に渋沢と会話する機会があったとしても、話はあまり盛り上がらなかったでしょうね。同じようなことは、学者肌でありつづけた「嫡孫」敬三と渋沢の間にも起きていたのではないか、と思われます。
先述のとおり、敬三は生物学者になる夢を渋沢に潰されました。しかし大正7年(1918年)、東京帝国大学の「法科経済科」に入学した後も、彼は自宅の物置小屋の屋根裏部屋に収集した化石や鉱物、植物などの標本類などを集め、私設博物館のような体裁で公開していました。いわば生物学者となる夢の残骸ですが、その中に各地を旅行したときの「土産物」も含まれていたのが注目されます。彼は後に民俗学に目覚めるからです。
生物学者となる夢こそ諦めましたが、敬三は渋沢から継承した事業を引き継ぎつつ、空き時間を捻出し、民俗学の研究もして過ごすようになりました。「民俗学の巨人」柳田国男からも指導を受けた敬三は、大学の教壇に立つことはなかったものの、宮本常一や網野善彦といった多くの後輩学者たちを後援し、資金面でも協力しています。また、敬三自身も日本各地をめぐり、朝鮮半島にも足を伸ばしてフィールドワークを展開するだけでなく、こうした民俗学の知識を、祖父・栄一の仕事を集めた博物館作りに活かしました。
そんな敬三によると、晩年の渋沢栄一は顔よりも後ろ姿に特徴があったそうです。「しっかりした偉人という感じよりは、寧(むし)ろ侘しい一個の郷里血洗島の農夫の姿を見る様な気がしました」と彼は記録しています。
渋沢栄一の孫は岩崎弥太郎の孫と結婚
敬三には他にも面白いエピソードがあります。彼は渋沢栄一の最大の宿敵・岩崎弥太郎の(外)孫の木内良胤と、親しくしていました。彼らは中学・高校時代に同級生で、互いの家を行き来するほど仲が良く、そのうち敬三は木内の妹・登喜子と恋仲になったとか。渋沢は二人の結婚に怒るかと思いきや賛成してくれたので、縁談は実を結びました。渋沢家と岩崎家は、孫たちの結婚によって名実ともに平和的に結びつくことができたのです。
しかし、その平和は長くは続きませんでした。「第二次世界大戦」の後、敗戦国となった日本ではGHQの指導のもと、「財閥解体」が行われることになりました。この当時の敬三は経世済民の実力を買われ、大蔵大臣にまでなっていました。渋沢家は「財閥解体」の対象には含まれていませんでしたが、「戦後も自分だけ巨万の富を有していることを潔しとはしない」という理由で、敬三は自らの財産基盤を「解体してくれ」とGHQに名乗り出たのです。
これによって、敬三は元・使用人の所有する土地で農作をして食いつながねばならないほど貧乏になってしまいますが、それでも自身の生き方を「ニコボツ」だと言って恥じることはなかったそうです。「ニコボツ」とは、「ニコニコ没落(主義)」の略で、「豊かな暮らしを守ろうとウソをつくより、潔く没落して、ニコニコしているほうがいい」という人生観に則ったものだそうです。
生き様に徳の高さがうかがえますが、そんな敬三を世間がいつまでも放っておくわけもなく、戦後の経済復興期には大会社の重役や顧問になってくれと声を掛けられ、忙しい日々が待っていました。敬三は最後まで「自分の宿命から逃げなかった」人物です。ある意味、祖父の栄一の性格をもっとも強く継承していたともいえる気がします。
ただ、敬三は栄一ほど壮健で長命ではありませんでした。学者と実業家の二足のワラジを履き続けた負担は、想像以上に彼の身体を蝕み、昭和35年(1960年)、民俗学の研究で赴いた熊本で持病の糖尿病を悪化させて倒れてしまいます。その3年後、渋沢敬三は多くの人たちから惜しまれながら亡くなりました。67歳でした。
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