渋沢家の後継者という“宿命”から逃れた嫡男・篤二と、逃げられなかった孫・敬三
#青天を衝け #渋沢栄一 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
先週の『青天を衝け』第39回では、徳川慶喜が、ついに沈黙を破って「鳥羽伏見の戦い」当時の思いを語ったシーンが印象に残った読者も多いでしょう。渋沢栄一による慶喜の逃亡の再評価が、彼の重い口を開かせた理由のひとつだと前回のコラムでお話しましたが、ドラマでは “逃げた”慶喜を、渋沢の嫡男・篤二が公然と批判するシーンがあり、それが一つのきっかけとなったと見えるように演出していました。
重病に倒れ、生きるか死ぬかの瀬戸際の父親を見た篤二は、混乱のあまり見舞いにやってきた慶喜に「僕も逃げたい!」と叫びます。自分を気の毒そうな目で見ている慶喜に「(僕が逃げ出したところで)それでも……あなたに比べたらましなはずです。あなたが背負っていたのは日本だ。日本すべて捨てて逃げた。それなのに今も平然と……!」と、八つ当たりしてしまったのでした。
あくまでこれはドラマのワンシーンであり、史実の慶喜はここまでハッキリ面罵されることはなかったかもしれません。しかし、篤二のセリフのような“本音”を周囲から感じる機会はよくあったと思いますよ。
慶喜が明治30年(1897年)、静岡から東京に屋敷を移したという話は以前もしましたが、彼は都内で2回、転居しました。最初は巣鴨で、その次が小石川でした。当時の巣鴨は静岡より田舎っぽさが残る地域だったようですが、小石川は江戸の昔からの閑静な住宅街だったのが“災い”したようです。慶喜は屋敷の庭で鶴を飼っていたのですが、その鳴き声が隣人のカンに障ったらしく、「うるさい」という苦情が来ました。隣人こと「伊沢氏」も「吃音矯正術」の講師で、多くの生徒が毎日集まるため、彼らの声こそうるさかったようですが……。
当時の建物は現代のような密閉性がありませんから、この手のトラブルはお屋敷街でも多発しがちだったのかもしれません。慶喜家の人々は「鶴の声より、隣から聞こえてくる声のほうがもっとやかましい」などと文句を言いましたが、慶喜は言い返すこともなく、動物園に鶴を寄付してしまったそうです(『徳川慶喜公伝』)。伊沢氏は、隣の屋敷に住んでいるのが「大坂城逃亡事件」を起こした前将軍・徳川慶喜だとわかって、嫌がらせをしたのだと思われます。それこそドラマの中の篤二のセリフのように、「今も平然と」鶴を愛でながら過ごす慶喜が憎らしかったのでしょう。
「逃げた」という事実から、いつまでも逃げられない慶喜のような人もいるわけですが、史実の篤二も結局、伯爵令嬢だった妻・敦子を差し置き、芸者妻を迎えたことで、渋沢栄一から廃嫡されることになりました。篤二は渋沢家の後継者という重圧から不名誉な形で逃げ出したのです。
これは渋沢の人生の「痛恨事」でした(渋沢秀雄『父 渋沢栄一』実業之日本社)。しかし、篤二と(先)妻・敦子の間に生まれていた敬三が、渋沢栄一の「嫡孫」として、渋沢家を名実ともに支えていくことになりました。そして、この渋沢敬三という人物は、逃げたくても逃げられない宿命を背負わされた人生を歩んだことで有名です。
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