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ビートたけしがリスペクトし続けた伝説の芸人伝 『浅草キッド』が描く「お笑いゼロ世代」

テレビや映画に背を向けた伝説の芸人・深見千三郎

ビートたけしがリスペクトし続けた伝説の芸人伝 『浅草キッド』が描く「お笑いゼロ世代」の画像2
タケシ(柳楽優弥)は深見千三郎(大泉洋)に憧れ、弟子入りを懇願する

 本作の監督・脚本を手がけた劇団ひとりは、大泉洋主演作『青天の霹靂』(14年)で映画監督デビューしたことでも知られている。『青天の霹靂』も1970年代の浅草を舞台にした芸人たちのバックステージものだったが、『浅草キッド』ではより時代性、お笑いとマスメディアとの関係性に踏み込んだ内容となっている。

 実際の深見千三郎はかなりの二枚目で、タップダンスやギター演奏に加え、時代劇スターの片岡千恵蔵のもとで若手時代に修行したことで、殺陣もうまかった。飲食店での金払いもよく、女性たちにモテモテだったそうだ。映画『男はつらいよ』(69年)の渥美清もフランス座出身であり、「コント55号」でテレビの人気者となる萩本欽一は深見の直弟子だった。多くの芸人たちが渥美清や萩本欽一のように映画やテレビに出たがるのに対し、深見は舞台と浅草という街にこだわり続けた。

 深見が映画やテレビに出たがらなかった理由のひとつは、左手の怪我のためだと言われている。深見は戦時中に軍需工場に徴用され、機械に挟まれて左手の親指以外の指を4本失っていた。舞台に上がるときの深見は左手に包帯を巻き、客席からは見えないように工夫していた。街を歩くときにジャケットやコートを羽織っていたのは、左手を目立たせないためだろう。繊細な心の持ち主でもあった。もしも深見が戦時中に事故に遭っていなければ、映画やテレビでも活躍する人気タレントになっていた可能性は充分にある。

 深見がスターになっていれば、「浅草フランス座」で青年期のたけしと出会うこともなく、ビートたけしは誕生していなかったかもしれない。ビートたけしがいなければ、お笑いの世界も違ったものになっていただろう。人と人とが出会うことの面白さ、人生の不思議さを感じさせる。

 舞台にこだわる深見に代わって、弟子の東八郎(尾上寛之)がテレビで人気を得るようになっていく。劇場では「タケ」と呼ばれ、すっかり劇場に溶け込んでいたタケシも、先輩芸人のキヨシ(土屋伸之)から漫才コンビを組もうと誘われる。漫才で注目を集めれば、テレビ出演のチャンスが出てくる。だが、深見は漫才のことをしゃべるだけで芸がないと嫌っていた。漫才コンビを組むことは、深見のもとを去ることを意味していた。

 世話になっていた深見の妻・麻里(鈴木保奈美)やタケシの下積み修行を見守ってきた踊り子の千春(門脇麦)とも別れることになる。お金はないが楽園のような日々を浅草で過ごしていたタケシは、つらい選択を迫られる。

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