『徳川慶喜公伝』編纂をすぐに許可できなかった「一癖ある御方」慶喜の“黒歴史”
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大胆さと小心さを併せ持つ「一癖ある御方」
慶喜の人物像を歴史的事実から改めて読み解いてみると、自分で対処しきれなくなった問題は完全に放り出してしまう悪癖はあるものの、彼が稀に見る幸運の持ち主であることも手伝い、“敵前逃亡の愚将”で終わってしまうような「最悪の結果」には至らないことのほうが多いのかもしれません。
しかし慶喜は、妻・美賀子との別れにおいても例の投げ出し癖を発動させてしまった観があり、こちらはよい結果には転びませんでした。ドラマでは、写真現像用の暗室にこもった慶喜が、亡き妻の笑顔の写真を見つめているシーンがあり、愛妻との今生の別れをキレイにまとめていたとは思います。しかし、史実の慶喜は、美賀子の死に目に会おうともしませんでした。妻の危篤を電報で知らされた後も、慶喜は静岡で趣味の写真撮影を続行。亡くなった後に妻の顔を拝みに東京までいったものの、葬儀には出ず、静岡にすぐに戻ってしまっています。
その一方で、彼の実母が亡くなった時には真摯に向かい合った記録が慶喜にはあります。妻と同じように彼の謹慎期間中の出来事で、静岡から東京まで慶喜は赴いたという状況は同じです。それなのに一晩中、母の遺体に彼は付き添っていたのです。妻の時とは大違いですね。
以前、この連載内でも触れましたが、妻の死に際して彼がとった行動の理由は、妻への愛情が薄かったこと、そしてそれに付随するような形で、美賀子に対して「夫として後ろめたさがあった」から起きたことかもしれません。
ドラマでは最後まで登場しませんでしたが、慶喜のすべての子どもたちの母親は、美賀子ではなく、中根幸と新村信という二人の側室です。美賀子は側室たちの生んだ子どもたちの母親の役割を担う……というか、慶喜からその仕事を押し付けられるような形で長年、生きざるを得ませんでした。慶喜は、美賀子とは(彼の実母のように)公明正大に向かい合えた関係ではなく、その後ろめたさゆえに、妻に今さら合わせる顔がないと、慶喜はまた「逃げてしまった」のでは……などと筆者は考えます。
史実の慶喜は、ドラマで持ち上げているほど「名君」「偉人」ではなかったとは思われますが、しかし「暗君」「悪人」でもない。日本中から批判を浴びた「大坂城逃亡事件」という過去を気に病み続ける誠意はある一方、「それが逆に日本のためになった」などと再評価されると、機嫌を良くしてしまう都合の良さも持ち合わせている。とはいえ、完全に過去の自分を許す気にもなれない……。自分の手に余ると放り出してしまう“大胆さ”と、いつまでも悩み続ける“小心さ”を併せ持つ人物、それが徳川慶喜であろうと筆者には思われます。『徳川慶喜公伝』の「逸事」(第三十五章)には、重臣の板倉勝静(いたくら・かつきよ)から「一癖ある御方」と評されていた記録がありますが、まさにそのとおりといわざるを得ないのです。
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