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日刊サイゾー トップ  > 徳川慶喜「一癖ある御方」の“黒歴史”

『徳川慶喜公伝』編纂をすぐに許可できなかった「一癖ある御方」慶喜の“黒歴史”

慶喜は「大坂城逃亡事件」を悔やみ続けた?

『青天を衝け』徳川慶喜と渋沢栄一の再会シーンにおける虚実 栄一をたしなめた慶喜の態度には理由があった?の画像2
徳川慶喜(『近世名士写真 其2』より)

 慶喜は「鳥羽伏見の戦い」で、味方の兵を戦場に残し、わずかな供だけ連れて大坂城を逃走、江戸に軍艦で戻るという実に不名誉な逃げ方をしたのですが、この“黒歴史”を『徳川慶喜公伝』では彼の偉業として肯定し、渋沢も序文で褒めたたえています。この“再評価”が伝記制作に対する慶喜の心変わりの理由になったのかもしれません。

 「鳥羽伏見の戦い」当時、フランスにいた渋沢は、実際には慶喜が逃走したと知って激怒したという記録が残っているのですが、それから数十年たち、態度を180度変えることになりました。渋沢は『徳川慶喜公伝』の序文でこう記しています。「若(も)しも彼の時に公が小勇に駆られ、卒然として干戈を執つて起たれたならば、此日本は如何なる混乱に陥つたか、真に国家を思ふの衷情があれば、黙止せられるより外に処置はなかつたのであるといふ事を、染々と理会(=理解)」した、と。

 すなわち、「慶喜が明治新政府軍を迎え撃ってしまうと日本が混乱に陥るのは必至だった。戦いを避けたのはこの国を思えばこその選択だった」と渋沢は評価しているのです。たしかに当時、内乱に乗じた諸外国の侵略が懸念されていました。慶喜による不戦の決断が、ある意味、日本を守ったと言えなくはないのです。

 『徳川慶喜公伝』の記述から、この「大坂城逃亡事件」についての箇所をまとめてみると、逃げだす直前の慶喜は「初(はじめ)より戦意ましまさねば」、戦が始まっても「大坂城を出で給はず」。「感冒(=風邪)の心地なりければ、寝衣のままにて多くは」布団の中で過ごしていたなどと、実に都合のいいことを言っています。

 慶喜は当時の自分の行動について「余自らも宜しきを得たりとは思はざれども、城中の有様、如何にしてもせんすべ(=術)なく」……つまり、自分でも「よくない」とは思いつつ、荒れた城内の統率ができなかったので、そのまま放置していたとしています。

 大坂城内の人心が荒れた理由について慶喜の主張を筆者なりにまとめると、慶喜と部下では戦についての意見が食い違い、「勝手にしろ」と言い放った慶喜は布団の中に逃避。問題を直視せず、放置しているうち、戦況は最悪になっていた……ということのようです。

 そして慶喜はこれを「終生の遺憾なり」……つまり、このときの行為を自分は一生悔やんでいるよ、などとこれまたサラッと言ってのけています。渋沢が“評価”したような、「戦わないことが、日本のためになると思った」という都合のよい言い訳だけはしなかったところに、慶喜の誠意もうかがえる気はします。

 慶喜が「大坂城逃亡事件」を後悔し、自分を許せなかったであろうことは、その後の慶喜の行動にも表れていると思います。敗走後、新政府に恭順の意を示した慶喜は寛永寺で謹慎しますが、その時すべての日記類を焼いてしまっています。また、よほどの用事がない限り江戸/東京に行くのを慎み、公職や名誉からも遠ざかる生活を送りました。静岡時代、旧臣が訪ねてきてもほとんど会おうともしなかったのも、自分への罰のつもりだったのではないでしょうか。

 慶喜が「鳥羽伏見の戦い」で“見捨てた”兵士たちの中には新選組の面々もいましたが、明治21年に建てられた近藤勇・土方歳三の「顕彰碑」の文字を揮毫してもらえないか、と実行委員から頼まれた時も、慶喜はただ黙って涙を流すだけだったといいます。それを見て慶喜の心中を読んだ家令(≒執事)が「お断りする」という連絡を入れたそうです。

 世間における自分の評価が回復しつつあることを感じ取った慶喜は、明治30年に静岡から東京に転居しています。また先述のとおり、渋沢などの旧幕臣から、慶喜の「大坂城逃亡事件」は偉大な選択だったなどと持ち上げる声も増え始めました。しかし、顕彰碑の揮毫の依頼に涙した逸話からは、20年の時がたっても慶喜が「大坂城逃亡事件」を己の許されざる過ちだと心の底で考え続けていたことがうかがえます。

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