大阪という土壌が生み出した“遅咲きのヒーロー” 俳優&監督・上西雄大が語る泥まみれの役者人生
#インタビュー #上西雄大 #西成ゴローの四億円
大阪にはつらかった記憶が埋まっている
――主演映画が目白押し状態の上西監督ですが、これまでの俳優人生を振り返ってもらえればと思います。俳優業に足を踏み入れたきっかけは、何だったんでしょうか?
上西 僕の俳優デビューは遅いんです。40歳を過ぎてからです。以前はグルメ系のライターをしていたんですが、妙なことから芸能プロダクションの社長を引き受けることになり、小さな舞台の脚本を書いたんです。舞台で役者が足りず、自分も舞台に立つことになったんですが、当然ながら素人なので芝居ができず、その舞台は大恥をかきました。舞台を観たある役者からは、そのことをからかわれました。それが悔しくて腹が立って、関西芸術座出身のベテラン俳優の芝本正さんと奥さまの小西由貴さんに弟子入りして、イチから学んだんです。それこそ、発声の基本となる「ういろう売り」から教わりました。
芝本先生は僕のことをずっと温かく見守ってくれました。僕が書いた脚本の演出で一度揉めて疎遠になったこともあったんですが、それでも僕が出たTVドラマは必ず見てくれ、芝居も観てくれました。芝本先生は2018年に亡くなられましたが、今でも僕が舞台に立っていると劇場のどこかで先生が見守ってくれているような気がするんです。『西成ゴローの四億円』『死闘篇』に出ている焼肉屋のおばあちゃんは、お願いして小西先生に演じてもらっています。『西成ゴローの四億円』はシリーズ化して、小西先生にはずっと出てほしいと思っているんです。
――50歳を目前にして劇団を旗揚げ。関西での演劇活動は大変な苦労があると思います。
上西 関西を拠点にしている役者の活動は大変です。特に演劇は役者が知り合いの役者を呼んでいる状態なので、なかなか客層が広がらないんです。僕らの劇団も旗揚げは10数人しか集まりませんでした。観にきてくれたお客さんの口コミで集めるしかありません。「テンアンツ」は関西で1500人は動員できるようになったんですが、関西ではそれが限界だなとも感じました。東京に進出して下北沢で公演したところ、観客のみなさんがSNSで発信してくれて、3か月後に東京で再演することがすぐに決まりました。今は東京を拠点にして、舞台公演するようになりました。
――上西監督の作品を観ていると、生まれ育った大阪に対する憎しみと愛情が渾然一体となった複雑な想いを感じさせます。
上西 大阪には何の恨みはありません。大阪という街を僕は愛していますし、大阪弁でなくては表現できないニュアンスがあると思っています。
でも、やっぱり大阪という街には、僕が生きてきた中でつらかった記憶も埋まっているんです。『西成ゴローの四億円』で目玉と腎臓を売ったゴローが淀川大橋を渡るシーンがありますが、淀川大橋は僕には忘れられない場所なんです。僕が子どもの頃、母親は父親からひどい暴力を受けていたんです。あまりに暴力がひどく、母親は裸足で逃げ出すことがありました。僕は心配になって、母の後を追い掛けました。母は泣きながら僕の手を引いて、引き返す場所が淀川大橋だったんです。母が川へ飛び込むんじゃないかと心配でしたが、母は橋の真ん中で立ち止まって、「ホットケーキ、食べるか?」と僕に言って戻ったんです。十三の食堂で食べたホットケーキの悲しい味と淀川大橋を僕は忘れることができません。淀川大橋を渡るときにゴローが泣いているシーンには、自分の子どもの頃の記憶も入っています。僕はこれからも大阪で映画を撮り続けるつもりです。
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