『青天を衝け』では描かれなかった伊藤博文の「攘夷派」から「異国びいき」への転向と英国留学の苦労エピソード
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『青天を衝け』の静岡編、あっという間に終了しましたね。次回の第29回からは明治政府編となるようですが、予告しておくと、これもあっという間に終わると思います(笑)。明治6年(1873年)、渋沢は大隈重信(大倉孝二さん)と決裂し、早くも大蔵省を辞職してしまいますから。
その後の渋沢はよく知られているように、民間の経済人・実業家として活動を開始し、70歳を迎えた明治43年(1910年)ごろまでに500以上もの起業に携わりました。実業界を引退した後は、昭和6年(1931年)に91歳で亡くなるまで、600以上の福祉・教育事業に全力投球という凄まじいバイタリティを発揮しています。ドラマでもいよいよ渋沢栄一が偉人への道を歩みだしていきそうですね。
先週の放送では、渋沢が(久しぶりに?)主人公として大きな存在感を見せました。当初は「新政府なんかに出仕しないぞ」「旧幕臣の意地を見せてやる」と息巻いていた渋沢も、足りないところだらけですが活気あふれる新政府を見学し、現在の財務省(2001年1月まで大蔵省)の次官職にあたる「大蔵大輔」の大隈重信から「君は、新しか世ば作りたいと思うたことはなかか?」と真正面から問われると、否定はできませんでした。
身体はいったん静岡に戻ったものの、気持ちは東京に残ってしまっている渋沢の本心を見抜いた徳川慶喜は「行きたいと思っておるのであろう。日本のためその腕を振るいたいと」と諭し、「ならば私のことは忘れよ」と渋沢を自由の身にしてやるのでした。草彅剛さん、吉沢亮さんの二人がいい演技を見せてくれましたよね。
さて、今回は「であ~る」が口癖の大隈重信と並んで、飄々とした立ち居振る舞いがやけにキャラ立ちしていた伊藤博文(山崎育三郎さん)の若き日についてお話したいと思います。「若き日」といっても、新政府に仕官したときの大隈の年齢は32歳、伊藤は29歳でしたが。
ドラマの中で伊藤は、渋沢から「横浜の異人商館の焼き討ちを企てた身なので、新政府にはお仕えできない」と言われ、すかさず「君もやったんか! そりゃあスッとしたじゃろう」「ワシもイギリス公使館を焼き討ちしたんじゃ」などと発言して渋沢に驚かれていました。
史実でも伊藤が仲間たちと実際にやらかした事件ですが、その後は長州藩出身の4名の“志士”たちとイギリスに留学、当地でキッパリと攘夷(=外国人排斥主義)の考えを捨て去りました。ドラマでも「留学後は異国贔屓じゃ!」などと言っていましたが、実に極端な思想の転換を経験したように思われます。
明治の世ではいかにも「変節漢め!」など陰で罵られていそうですが、伊藤のこうした変節は当時どのように受け止められていたのでしょうか。伊藤がイギリス人から「イギリス公使館を焼いたのに留学してきたの?」と皮肉を言われ、笑ってごまかした、または「覚えていません」と言った、などの“噂”はあるようですが、実際のところ、信頼できる史料にはそうした話は見つかりませんでした。
伊藤とともにイギリスへの密航留学を決行した仲間に、井上馨(いのうえ・かおる)という人物がいます(ドラマでは福士誠治さん)。この人も伊藤と同じように明治新政府の高官に上り詰めているのですが、彼はイギリスへの船の乗り継ぎのために訪れた上海に着いた瞬間、攘夷の思想を捨てたという“最速記録”の持ち主です。
小説家の司馬遼太郎は、紀行文集『街道をゆく21 神戸・横浜散歩、芸備の道』(朝日新聞出版)の中で井上のこんなエピソードを書いています。井上が「ある人」から「あなたのように積極的な開明家がなぜ旧幕時代には攘夷家だったのか」と尋ねられると、井上は苛立ちをあらわにして「その話題を遮るような勢いで『あの時は、ああでなきゃならなかったんだ』」と言ったというのですが、この情報の出典はハッキリしない“噂”のようですね(もしくは司馬の創作)。
伊藤についても、自身の「攘夷家」の時代についてどう思っているかを語った史料は見つかりませんでした。新政府内の出世株だった伊藤に、面と向かって“黒歴史”について問うことのできるジャーナリストなど明治にはいなかったのかもしれませんが、伊藤はたとえ聞かれたとしても、井上の逸話と同じような対応をするか、あるいは本当に笑ってごまかそうとしたかもしれません。
ではイギリス人が伊藤に皮肉を言うようなことはあったのでしょうか。これも特に記録はないようです。伊藤も焼き討ちに参加した品川・御殿山の英国公使館は、イギリス出資では造られておらず、幕府が資金も労働力も負担して建設させたものでした。イギリスはかかった費用を10年分割で支払う契約をしていただけで、伊藤らが放火したのが無人の建物だったこともあり、イギリスでも特に問題とされなかったのかもしれません。
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