『青天を衝け』では描かれなかった新選組・近藤勇と土方歳三の別れと“再会”
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
渋沢栄一を主人公に据えた大河ドラマ『青天を衝け』は、例えるなら“渋沢栄一が女好きではない世界線の物語”とでも言えるでしょうか。歴史を語る際の“常識”ではありえない設定も散見され、新鮮ではあるものの、やはり歴史ファンには違和感が残る部分もあります。
土方歳三の描写を軸に見れば、本作は“近藤勇が存在しない世界線の物語”とも言えるでしょう。これまでの歴史創作物の中で、近藤勇と土方歳三は絶対に切り離せない存在として扱われてきました。ですから、本作の“近藤の名を口にも出さない土方”には筆者も驚くばかりでした。町田啓太さん演じる土方歳三が当たり役であればあるほど、『青天』における近藤の完全な不在は残念な印象を与えるものになっている気がします。
最新話の第25回の時点の土方歳三は、渋沢成一郎らと蝦夷地で新政府軍を迎え撃つ段階にすでにいたので、近々戦死してしまうことでしょう。今回は、ドラマではほとんど登場することもなかった新選組にスポットを当て、彼らにまつわる逸話を取り上げたいと思います。
新選組が結成されたのは文久3年(1863年)のことです。近藤勇が新選組の二代目局長になるまでの血なまぐさい経緯は、今回は省略します。
結成当時の新選組隊士たちは、土方や近藤を入れても数十名程度しかいませんでした。ただし、新選組の月給は当時の水準としては高いほうで、当初から平隊士の月給でも3両程度はあったといわれています。現在の貨幣価値に換算すると30万円程度ですね。
新選組の羽振りが一番よかったのは、結成翌年の元治元年(1864年)のこと。この年の6月、「池田屋事件」での新選組の活躍に対し、幕府や朝廷から多額の褒賞金が与えられました。
「池田屋事件」とは、長州藩・土佐藩といった反幕府の尊王攘夷派が京都の旅館・池田屋で会談中のところを新選組が襲撃し、一挙に粛清した出来事のことです。これを称え、近藤や土方といった幹部には300両、隊士たちには200両もの褒賞金・慰労金が幕府などから贈られました。当時の1両=現在の10万円ほどですから、相当な収入です。
新選組の「組頭」だった永倉新八の証言によると、この当時の局長・近藤勇は月50両、副長の土方も月40両の高給取りだったことが知られています。永倉のような組頭(=中間管理職)で月30両。平隊士が月10両、つまり役職ナシの隊士でも月収100万円が保証されていたというのです。明日をも知れぬ激務だとはいえ、高水準のギャランティが新選組に支払われていたことがわかります。
もっとも、“全盛期”からわずか2年後の慶応2年(1866年)には、新選組の給与は激減していました。組頭で月10両、平隊士で月2両という数字を記した資料が、新選組から出資を求められた京都の豪商・三井家に残されています(『新選組金談一件』)。この資料からは土方や近藤の給料まではわかりませんが、おそらく最盛期の3分の1程度になっていたのではないか、と思われます。同時に、隊士たちの組織への忠誠心も下がっていたのではないでしょうか。
その一方で新選組の社会的評価は上がりつつありました。隊士たちの身分を正式な幕臣とすることが決定したのが、慶応3年(1867年)6月10日のこと。給料は下がっても、農民出身の土方や近藤にとって、「武士になる夢」が名実ともにかなったのはうれしいことでした。
しかし、それから1年ほどの間にすべてが変わり果ててしまうことを、この時の彼らはまだ知りません。
慶応4年(1868年)1月の「鳥羽伏見の戦い」において、旧幕軍の総大将・徳川慶喜は味方を見限るような形で戦場を去って江戸に戻ってしまいます。戦場に取り残された新選組の面々も1月10日、旧幕方の軍艦で江戸に帰還していますが、この時の隊士の総数はわずか40名ほど。最盛期には200名を超えていた新選組も斜陽期を迎えていました。同時に、近藤や土方といった幹部の指導力・求心力に陰りが見られることも否定できない状態でした。
「新政府軍が江戸に向かって進軍中」という情報に人々が恐れを抱く中、近藤勇は江戸城に呼ばれました。老中から「旧幕方の脱走兵をもう一度まとめあげ、新政府側に寝返ったりしないようにしてほしい」という使命を与えられたのに加え、その裏で、「新政府軍が甲府を占領し、関東での拠点にすることは、戦をしてでも食い止めてほしい」という密命も言い渡されます。当時、徳川慶喜は朝廷に対して恭順を貫いていました。実際は部下に武装を整えさせながらの“表向きの恭順”ではあったのですが、慶喜のためにも後者の任務は秘密裏に行う必要がありました。
この密命が成功した暁には、近藤勇と土方歳三の身分は大名となり、特に近藤については、甲府100万石からその半分を与えられる大大名として遇するとまで約束されます。これにより、落ち気味だった近藤のテンションは一気に跳ね上がってしまったのでした。
ちなみにこの時以降の新選組の名称を「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」とするケースもありますが、当時の資料にその名称を使った例はないので、今回は新選組のままとします。
慶応4年3月1日、土方の「駕籠(かご)はやめろ」との制止も聞かずに、近藤は「未来の大名らしく」駕籠に揺られながら江戸を出発し、新選組の生まれ故郷といえる日野に“凱旋”しました。「ついに大名になれそうだ」という近藤を皆が囲み、近藤から昔、剣を習ったという近所の若者たちから「先生、先生」とおだてられ、うれしくなって飲めない酒をあおるなど、近藤にとって幸せな時間が流れます。
しかし、その後の近藤、そして新選組を待ち受けていた運命はあまりに過酷でした。
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