土方歳三の謎に包まれた死…事故死だった可能性や国外逃亡説も?
#青天を衝け #土方歳三 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
先週の『青天を衝け』のクライマックスは、なんといっても渋沢成一郎(高良健吾さん)に別れを告げる土方歳三(町田啓太さん)のシーンであったと思います。高良さん、町田さんの熱演もあり、引き込まれてしまいました。新政府軍への徹底抗戦を貫きながらも、実は死に場所を求め続けていたという土方像には「なるほど」と思わせられつつ、「史実の土方は最後まで決して諦めたりしなかったはず」という思いも心をよぎりましたが。
『青天~』では、土方が致命傷を受けるシーンは描かれませんでした。決戦の夜、多くの兵士たちの遺体に混じって、静かに息を引き取る土方と、血まみれの三つ葉葵の御紋のついた腕章が映し出されたことで、旧幕軍が壊滅し、徳川の時代が完全に終わったことが示されただけ。史実とは少々異なる部分も含まれましたが、ああいうふうにしか、キレイにはまとめられないだろうなぁという気もしました。土方の死の前後の情報は、本当に錯綜していますからねぇ……。ということで、今回は土方の謎の死に迫りたいと思います。
まずは土方の死の前後、関係者たちが残した証言を見ていきましょう。新選組隊士・島田魁(しまだ・かい)の日記には、次のような記述が出てきます。なお、『島田魁日記』の原文は漢字とカタカナで句読点も少ないため、筆者の判断で原文をひらがなに変え、句読点と補足を加えた形でご紹介します。
島田によると、明治2(1869)年5月11日、土方は五稜郭から「彰義隊、額兵隊、見国隊、杜陵隊、伝習士官隊(そして、新選組)」などから成る500人ほどの部隊を率いて「一本木街柵(=現在の一本木関門)」に出陣しました。目的は、新政府軍に攻撃されている「炮台を援(たすけ)」ることです。
しかし、新政府軍の勢いは凄まじく、「異国橋近く(まで達し、)殆(ほとん)ど数歩(の距離と思える場所)」にまで迫っていたとのこと。当時の一本木関門の正確な場所は不明なのですが、現在の「(史跡)一本木関門」と、「北海道銀行 函館十字街支店」の近くとされている「異国橋」の間は直線距離にして約2キロも離れています。幕末の人の健脚でも徒歩20分ほどかかる距離であると考えられ、「数歩の距離」は大げさな印象ですが、死の恐怖の中にいた兵士たちには敵が間近にいると感じられたのかもしれません。
1:五稜郭 2:一本木関門
島田によると、「海岸と沙山(=砂山)とより(新政府軍の)狙撃」があり、「(味方が)数人斃(たお)る」事態になりましたが、土方には「倦む色無し」……彼の気迫はまったく衰えませんでした。ところが、ある瞬間に「敵(の銃弾が)、(土方の)丸腰(の)間を貫き、(土方は)遂に戦没」してしまったのです。土方たちは、前方の函館側と、すでに新政府軍の軍事拠点となっていた後方の七重浜側と、前後を挟まれる形で激しい銃撃にさらされ、その混乱の中で土方はいつのまにか被弾してしまった。それが致命傷となって亡くなった、というようにも読めます。
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