『青天を衝け』徳川慶喜と渋沢栄一の再会シーンにおける虚実 栄一をたしなめた慶喜の態度には理由があった?
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徳川宗家当主で「養子」でもある亀之助とも顔を合わさず…
当時の慶喜は、旧幕臣との面会を避けるだけでなく、養子にあたる徳川亀之助とも直接会おうとはしませんでした。亀之助は養父に失礼があってはならないという観点から、江戸と駿府を何度も行き来する生活を送っていましたが、現代でいえば小学校に入ったばかりの年齢の彼が駿府に来たときでさえ、慶喜は謹慎中を理由に亀之助とは会おうとせず、亀之助がよこした使者から「三位様(=徳川亀之助)から(慶喜様の)御機嫌を伺います」と言われても、「(私のことなどどうでもいいから)三位公には機嫌はいかがか」と決まった答えを毎回返すだけという、かなり限定した付き合いしかしていません(『徳川慶喜残照』)。
亀之助の使者も渋沢と同じように「慶喜さまの謹慎は本物だ」などと素直に感心していたようですが、亀之助がいくら年若いとはいえ、養子の彼から直接、幕府瓦解時の秘話を求められたりしたら……という警戒心が慶喜にはあったのではないかという気がします。
慶喜が新政府軍から謹慎という手段をとりつつ、どうして“逃げ続けた”のか。いくら慶喜がその真意を説明しても所詮は“言い訳”にしか聞こえないでしょう。そして、その話を彼から聞いた者が「証言」として記録に残してしまう可能性を、当時の慶喜はとにかく警戒していたように筆者には思われます。
なお、宝台院での生活の中で、慶喜は謹慎だけをしていたわけではありません。慶喜は油絵の技法に詳しい中島鍬次郎(中島仰山:幕府の洋学研究教育機関・開成所の元教授)を招き、教えを受けていたそうです。油彩画は慶喜がもっとも好んだ趣味の一つですが、絵の具さえも、市販品を買うのではなく、自分の手で調合していました。それも宝台院時代にありあまる時間を使って学んだことかもしれませんね。
慶喜の寺での謹慎生活がひとまず終わったのが明治2年(1869年)のこと。渋沢が用意してくれた元・代官屋敷に慶喜は転居し、明治21年(1888年)までの約19年をそこで過ごしました。渋沢は京都から小川治兵衛という名庭師を呼んで、約4500坪ある敷地のうちの大半を占める広い庭を整えさせたそうです。
渋沢は慶喜の希望を最優先し、徳川昭武のいる水戸藩には行かず、そして東京(1868年に江戸から改称)にも帰らず、血洗島の家族を静岡(1869年に駿府から改称)に呼び寄せ、しばらく当地で活動することになりました。明治2年(1869年)には「静岡商法会所」をつくり、静岡の特産品を全国に売り出すことに短期間のうちに成功しています。
早期から大きな利益が出たことは慶喜の生活の改善にもつながり、明治2年中に、東京から正室の美賀君も静岡に呼ばれました。夫婦にとっては約7年ぶりの同居再開です。この時慶喜は35歳、美賀君は33歳でした。現在の年齢感覚では40代半ばに相当でしょうか。
静岡時代、慶喜は多くの子宝に恵まれました。しかし、美賀君は慶喜の正妻でありながら、夫が江戸から連れてきた二人の側室が妊娠・出産を毎年のように繰り返すのをじっと見ているしかありませんでした。当時の判断基準で高貴な女性が妊娠・出産が可能だとされる30歳をとうに過ぎていたからです。ドラマでは「夫・慶喜とこの先再会できても、私があの人の子を生むことはできないだろう」と美賀君がつぶやいているシーンがあったと記憶していますが、実際になかなか大変だったようですね。
子供が相次いで生まれる中、思わぬ悲劇がありました。慶喜が37歳の時に、長男と次男が次々と亡くなったのです。原因として推測されたのが、乳母が乳首にまで塗っていた白粉です。この白粉は人体に有害な鉛を主成分としていました。江戸時代から乳母は、高貴な方のお子様に失礼がないよう、授乳する際でも乳首にまで白粉を塗るのがマナーだったというのですから、聞くだけでも恐ろしい……。実の子が夭折し、位を継がせることができなかった将軍が圧倒的に多かったのも、江戸城・大奥ではこの“マナー”が浸透していたことが原因だったと考えられます。その後の徳川慶喜家では乳母のその手の化粧は禁止され、子供たちも元気に成長することができました。
このようなエピソードひとつからも、古い時代と新しい時代の狭間を生きた徳川慶喜の人生は非常に興味深いものだったといえるでしょう。
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