幕末史上もっとも救いようのない結末… 渋沢栄一の人生訓ともなった、徳川慶喜の冷淡すぎる「天狗党」討伐
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慶喜の天狗党に対する冷淡さに渋沢栄一が学んだこと
慶喜という人物は、このように自分で決めた“プリンシパル(行動原則)”にひたすら忠実であることを好むのでした。そして、その悪い側面が表れるのが、これから描かれるであろう天狗党の乱の鎮圧についてなんですよね……。これは地獄のような結果に終わりました。
天狗党の人々は、自分たちと「同じ」水戸藩出身の慶喜を身内だと信じて疑いません。しかし史実の慶喜は、自分にとって都合の悪いことを行う人間は身内ではありえないという考えの持ち主でした。
慶喜は天狗党の討伐に熱心でした。各藩から集めた約1万の兵を率いて、京都に入ろうとする天狗党を大津の地で待ち構えていたのです。この慶喜の姿は、天狗党にとっては衝撃でした。また、降伏した天狗党の人々が厳しい処遇を受けているにもかかわらず、慶喜は一切、とりなしをしませんでした。
彼の言い分は次のとおりです。「(天狗党は)幕府の大法を犯したる者なれば、何とも申立つべきやうなし」……秩序維持という幕府の大原則を乱した罪人が天狗党であるから、彼らには何のとりなしもすることはできない!の一点張り。
これには世間どころか、「一橋家はじめ加賀藩の諸士等は皆失望落胆して、口々に公の人情に悖(もとる)を非難」されたのでした(『徳川慶喜公伝』)。ちなみに「加賀藩」というのは、降伏した天狗党の人々を当初、人道的に世話していた担当者のことです。本来なら慶喜がすべき役割なのですが……。
渋沢栄一も一橋家家臣として、大津の地に出陣させられていたのですが、彼が目にしたのは、「尊皇攘夷をしつこく主張しつづけた」「そのために挙兵までして、世間を騒がせたが、具体的に大きな戦を起こしたわけではない」という“だけ”で、昔の仲間たちが捕らえられ、むごい扱いを受け、まともな取り調べもないまま殺されたり、遠島(島流し)になっていく様子でした。
左足には足枷がかけられ、窓も無ければ、真冬なのに暖房設備も一切ない、魚のニオイが染み付いた「鰊倉(にしんぐら)」に何百人もの人々が放り込まれた例もありました。ロクに食べ物も与えられず、取り調べまでに病気で亡くなる人も少なからずいました。これらの処遇を行ったのはさすがに慶喜本人ではなく、幕府が派遣した追討軍のリーダー、田沼意尊ではあるのですが、それでも慶喜は冷淡でした。慶喜は損になるようなことはしたがらない……そう考えた世間は「酷い」と声を上げるようになるわけです。
渋沢たちは複雑な思いを、慶喜という主君に、そして自分の境遇に抱いたと思われます。なぜなら渋沢たちが一橋家の家臣になっていなければ、彼らはほぼ確実に天狗党の乱に加わっており、処刑される側にいたからですね。
後に渋沢栄一の評伝を書いた明治の文豪・幸田露伴によると、この事件こそが渋沢にとって「人生の大学」となったというのです。渋沢がこの事件から(そして徳川慶喜という人物から)学んだことは、「有利な立場で生き残るためには、身内をも見殺しにせざるをえない時もある」という実に苦い教訓だったのでしょう。この事件の後、渋沢は情熱に突き動かされて行動することをやめ、「著しく道理詰めに事を運ぼうと」するようになったと幸田露伴は記しています。
本当に救いようのない事件だった天狗党の乱。慶喜推しの『青天~』では、(おそらく史実とは異なる)慶喜が苦悶する様子が描かれるのでしょうが、それだけで徳川慶喜というキャラの好感度は保ちうるのでしょうか。次の放送を心して見届けましょう。
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