幕末史上もっとも救いようのない結末… 渋沢栄一の人生訓ともなった、徳川慶喜の冷淡すぎる「天狗党」討伐
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
前回の『青天を衝け』は「平岡円四郎ロス」のムードに支配された回でしたね。しかし、ここ最近、感動的なシーンの間に秘かに紛れ込んできている「アレ」の存在に、読者のみなさんはお気づきでしょうか。「アレ」とは「天狗党の乱」のことです。
テロや暗殺だらけの幕末史の中でも、もっとも救いようのないイヤな結末を迎えた事件といえるのが、この天狗党の乱なのです。
ここ最近の放送では、渋沢栄一らは京都から地元である関東に、昔の仲間たちを一橋家の家臣にリクルートするべく戻っている姿が描かれましたよね。結果的に40名ほどの候補者を京都に連れていきましたが、これ、実は「たった40名しか無理だった」というのが当時の感覚のようです。なぜかというと、渋沢の仲間たちのほとんどは天狗党の乱に加わってしまっていたからなんですね。
長い話を要約すると、もともと「天狗党」は水戸藩士の中でも、特に熱心な尊王攘夷派の有志たちを中心に結成された集団でした。天皇に味方するのは鼻が高い(だから天狗)というのが党名の語源ともいいますが、実はよくわかっていません。
結成当時の党員はわずか70名足らずでした。しかし、かつての渋沢たちのような、農民の身分でありながら政治に関心のある庶民たちをも巻き込み、一時期は1400~1500名ほどにまで党員を増やしていました。彼らの主な主張は、当時の帝・孝明天皇が攘夷の考えを捨てていないかぎり、尊皇攘夷の実行を諦めてはならない!ということに尽きます。
「薩摩や長州が、尊皇攘夷を諦めてしまった今でも、天狗党なら攘夷ができる!」というわけですが、特に具体的な方策があったわけではありません。それどころか彼らは慢性的な活動資金不足に悩み、近隣地域で略奪も行いました。水戸藩内では、家族の誰かが天狗党に入ってしまった家は、「諸生党」と呼ばれるアンチ天狗党に狙われ、攻撃され、居場所をも失うという内乱となり、それはもう散々だったのですね。
しかも、前回の放送でもあったとおり、首領(=リーダー)が藤田小四郎から武田耕雲斎に交代した天狗党は、徳川慶喜の温情にすがろうと、京都に向かいました。京都を目前とした大津にたどり着いた時点でも800名以上の人々がいたと思われます。その中には、女や子供……、水戸から追い出された天狗党員の家族も含まれていました。
慶喜が、尊皇攘夷のリーダー的存在だった故・徳川斉昭の子息であるという理由だけで、天狗党の人々は彼が(隠れ)攘夷派だと信じて疑いませんでした。実際の慶喜は尊皇攘夷運動や天狗党の活動に対し、きわめて否定的だったのですが……。
長々と背景についてお話してきましたが、ここからが最大の問題なのです。今年の「大河」は異例の「慶喜推し」です。史実では、天狗党の乱の鎮圧をめぐっての“冷淡すぎる”慶喜の処断に対し、世間は驚き、彼のことを批判してはばからない状況になります。『青天~』は慶喜のどんな側面においても、彼を悪役にはせず、ポジティブに読み替えることに成功していますが、この天狗党の部分だけはうまくいかないのではないか……と思われてならないのです。
史実の慶喜の“冷たさ”は、『青天~』の中では“冷静さ”に巧妙に置き換えられています。そして、それが草彅剛さんの名演技によってかなりの効果を生んでいます。『篤姫』(2008)や『八重の桜』(2013)など、近年の幕末モノの「大河」では、慶喜は狡猾な悪役として描かれるほうが多かったのに対し、非常に斬新な演出といえるでしょう。
話が本筋からズレますが、近年の「大河」ではあまりよく描かれてこなかったシーンが、慶喜の快挙として描かれることも多々あります。たとえば京都の中川宮邸で、薩摩と仙台の両藩主などを「大愚物(=大馬鹿者)」と慶喜が罵ったシーンも、『青天~』では「慶喜さまがついに言いたいことを言えた!」と、祝い酒まで振る舞われるといった演出になっていました。
実はあれも“読み方”次第の場面なんですよね。“協力者”を慶喜は足蹴にしてしまったと見ることもできるのです。「幕府を存続させるためには、幕府が変わることが必要だ。幕府創世以来、ずっと続いてきた将軍家による専制政治を改めねばならない。日本各地の有力者たち(外様大名も含む)による合議制を導入しよう」という、(外様の)島津久光や伊達宗城といった大名たちの提案に、野心がなかったとはいえません。しかし、それも幕府の存続には不可欠な条件であったと筆者には思われます。
結局、慶喜の「君たちは大馬鹿者」発言のせいで、幕政改革は頓挫してしまいました。慶喜が「理想を貫いた」と言い切れなくはないですが、結局、彼が改革者となるリスクを負いたがらなかったせいで、幕府という組織全体が瓦解するしかなくなった、とも言えるわけです。
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