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『極悪女王』女子プロレスブームの陰の主人公「親衛隊」の正体…「3人目のクラッシュ」インタビュー後編

Netflixオリジナル『極悪女王』

 鈴木おさむが企画・脚本・プロデュースを務めたNetflixオリジナル『極悪女王』が、9月19日の配信開始から「Netflix週間TOP10(シリーズ)」で3週連続1位を獲得するなど、大ヒットを記録している。

 今作は稀代のヒールレスラー・ダンプ松本を主人公として、ライバルのクラッシュ・ギャルズをはじめとした当時のレスラーや関係者が女子プロレスブームを生み出し、本人たちもその渦に飲み込まれていく様子が、圧巻の再現度でリアルに描写されている。その異様な「熱狂」は当時を知る視聴者だけでなく、10代~20代の若者たちにも「こんな時代があったのか」と衝撃を与え、幅広い層に響いた要因となった。

 リングの上では、ベビーフェイスのクラッシュ・ギャルズ、彼女たちをいたぶる悪役のダンプ松本率いる極悪同盟、悪徳レフェリー・阿部四郎にスポットが当たるが、いかに激しい試合をしようとそれに熱狂する観客がいなければブームは起きない。ある意味、観客こそが「熱狂」の正体であり、80年代女子プロレスブームの陰の主役といえるだろう。

 クラッシュ・ギャルズを中心にした当時の女子プロレスブームで特徴的なのは、その観客の年齢層が低かったことだ。ファンは女子中高生ら10代の女性が大半で、その熱狂ぶりは他のトップアイドルのファンよりもすさまじかった。そのファンの中でもエリートといえるのが「親衛隊」だ。ドラマ内でも、ハッピをまとってポンポンを持った親衛隊員たちがクラッシュ・ギャルズに全力で声援を送り、歌のコーナーでは統一された振りとコールで盛り上げ、宿敵・ダンプ松本には「帰れ!」コールを食らわせている。

 80年代アイドルに親衛隊は付き物だったが、女子プロレスラーの親衛隊とはどんなものだったのか。なぜ彼女たちはあそこまで女子プロレスに熱狂し、なにを思ってクラッシュを応援していたのか。

 当の長与ですら、ブル中野のYouTubeチャンネルに出演した際に「全女の謎」「隊員たちはお金や時間をどう工面していたのか」と不思議がっていたクラッシュ親衛隊。その実像について、高校生から大学生にかけてクラッシュ・ギャルズ公認親衛隊員、ライオネス飛鳥公認親衛隊長および公認ファンクラブ会長を務め、名著『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(柳澤健・著)に”3人目のクラッシュ”として登場するライターの伊藤雅奈子さんに直撃したインタビュー後編をお送りする。

*前編はこちら

そもそも女子プロレスラーの公認親衛隊とはどのように生まれたのか。

伊藤「親衛隊はビューティ・ペアの頃にもありましたが、ちゃんと形式化されたのは85年くらいだと思います。全国にクラッシュ・ギャルズの公認親衛隊ができて、歌に対する全国統一のコールや振りが決められるといった形になったのは、その年の8月にリリースされた4枚目のシングル「東京爆発娘!」の頃。22日の日本武道館、28日の大阪城ホール大会を境に、親衛隊のコールがキレイに揃っていきました。当時は前半戦と後半戦の間にリング上で歌のコーナーがあって、デビル雅美さんとクラッシュ・ギャルズ、のちにJBエンジェルス(立野記代&山崎五紀)、ファイヤージェッツ(堀田祐美子&西脇充子)、海狼組(北斗晶&みなみ鈴香)などが歌っていました」

 親衛隊の不思議として、発表したばかりの歌に統一されたコールや振りがすでに決められ、それを全国の隊員がマスターしているということがある。この謎の真相には、強力なトップダウンの組織構成が関係していた。

伊藤「親衛隊のピラミッドとしては、一番上に親衛隊長がいて、その下に副隊長、それから隊員という形になります。ですが、実は親衛隊長の上に全国の各親衛隊をまとめる『幹部』という人たちがいるんです。私が親衛隊をやっていたころは、幹部は東京に5人、支部の関西に1人いました。リリース前にコールや振りが決まっているのは、全女やレコード会社から幹部に情報が降りてくるからです。それを基に、全国の親衛隊に用紙で情報が回っていくんです」

 隊員に情報を回すといっても、今のようにスマホやネットがあるわけではない。彼女たちはとてつもない労力をかけて、クラッシュを盛り立てるべく全精力を注いでいた。

伊藤「ファン同士の連絡は今みたいにLINEでというわけにはいきませんから、基本的に『家電』ですね。あとクラッシュ・ギャルズ、ソロシンガーになった千種さんは、学生たちのお休みの時期、ゴールデンウィーク、夏休み、年末年始にコンサートをしていたんですよ。そのコンサートの前に、コールが書かれた新曲の用紙が東京の幹部から各支部の幹部に送られてくる。それを隊長がコピーして、『集会』と称して、学校がお休みの日曜日に隊員たちを集めて、用紙を配る。そこでみんなでコールと振りを覚えて、コンサート当日も早めに集合して、会場付近の駐車場や空き地などで最終的に合わせて本番に臨むと、そういう流れです。『コピー』『郵送』『家電』といったアナログな時代なので、すごく手間暇がかかります(笑)」

 当時、ファンの大半は女子中高生だった。親衛隊ともなればクラッシュを追いかけて地元以外にも遠征し、試合やコンサートに駆けつけなければならない。交通費やチケット代はかなりの額になりそうだが、彼女たちはどう工面していたのか。

伊藤「可能な限りはアルバイトをして、どうしても足りない分は親の援助です。交通費の節約という意味では、私たちの最強の味方が『青春18きっぷ』でした。ちょうど私たちが小中学生のころに出てきたんですよね。大阪から東京に行く場合、夜の10時くらいから『青春18きっぷ』を駆使して鈍行電車を乗り継ぎ、早朝に東京駅に着くんですけど、乗り継ぎばっかりだからまったく寝られません。いっさい寝ないまま、ハッピを着てポンポンを持って試合の応援に行くわけですけど、それでも『クラッシュを見たい』という一心でやっていました。アイドルがいつまでアイドルでいてくれるか分からないからですから、行けるうちに会場に行くという気持ちでした。今で言う『推しは推せるうちに推せ』ですね。宿泊費については、全国に親衛隊やファンクラブの友だちがいるので、その友だちの家やウィークリーマンションに泊まっていました。東京に行ったらこの子の家に泊めてもらう、その子が大阪に来たら私たちが泊めてあげる、というように、ファン同士で当たり前に助け合いをしていました」

 チケットは親衛隊やファンクラブでまとめて購入するが、それを女子中高生たちが自ら管理してやっていた。今では考えられないことだが、それで組織がしっかりと回っていたのだ。

伊藤「今に比べたらチケット代は安くて3000円から5000円以内ですけど、何十人分なので総額は数十万円になることもあります。中高生としては普通なら見たこともないような大金なんですけど、当たり前のようにお札を数えて、代表して事務所に送金していましたね。試合だけじゃなく、コンサートが決まったら購入希望者を募って同じようにやっていました。現金書留で代金を送ったり、不便な時代です」

 

伊藤雅奈子さん/写真=石川真魚

 今とは比べ物にならないほどの労力がかかる当時の推し活。クラッシュ・ギャルズがいかに時代の寵児とはいえ、なぜ彼女たちはそこまでの熱量を持つことができたのか。

伊藤「現金書留の話だけじゃなく、情報を回すにしても、雑誌で情報を仕入れて、そこから家電で他の隊員たちに回すわけですが、お父さんが出たり、遅くなったりしたらまた改めてかけたり。本当に不便です。移動は『青春18きっぷ』を使って、最安の価格で最短のルートで寝ずに行くしかなかったんです。今みたいにネットがあるわけじゃないですけど、隊員同士で『このルートのほうが安いよ』『こっちのほうが早い』って情報がシェアされていました。でも、そういう不便で障害がある時の愛情って余計に燃えるんですよ。今みたいにスマホでなんでも済む時代とは違った、不便だからこその強い愛情。愛というか、執念ですよね。それに今のアイドルグループは『歌って踊ってかっこいい』だけど、クラッシュ・ギャルズは『歌って踊って、殴り、殴られ』の世界なので、感情がより乗っかるんですよ。だから当然、通常のアイドルよりもファンの熱量が高くなりますよね」

 当時の少女たちの熱量は想像を絶する。推し活という言葉が近年流行しているが、80年代の推し活の熱さはハンパではなかった。

伊藤「例えば、千種さんのファンだったら、彼女が『宝塚歌劇団が好き』と言ったら、みんな宝塚を観にいくんです。当時流行っていたD’LITES CLUBやSAILORSの服が好きだと言ったら、ファンもみんなそれを着る。これを食べるのが好きですと言ったら、ファンもみんなそれを食べる。飛鳥さんだったら、彼女がある女性シンガーを好きになってライブに行ったことが分かると、私たちはそのシンガーのシングルやアルバムを全部揃えて、すべての歌を最初から最後まで頭に入れるんですよ。1曲も覚えないという選択肢がないんです。

飛鳥さんが次にBOØWYが好きだと言い出したら、今度はBOØWYのシングルやアルバムを全部揃えて、すべての曲を覚えるんです。ロックにまったく興味がないんですけど、それでも100曲とかを覚えられてしまうんです。それをして何の得があるのかというと、何もないんです。たまにその中から飛鳥さんがコンサートで何曲かカバーすることはあるんですけど、その時に曲が分かるのが唯一のメリットですかね。なぜそんな得のないことをやるのかといえば、それは『好きな人の好きなものをすべて知りたい』という自分の欲望を満たすためだけです。今から思えばすさまじいエネルギーなんですけど、当時はそれが当たり前でした」

 近年は若い女性が推し活のためにパパ活などに手を出してしまうという事例があるが、当時の彼女たちにそのような発想はなく、そういう意味では健全だった。だが、それでも女子中高生がクラッシュを追いかけて飛び回っているのだから親は心配しなかったのか。

伊藤「ファン活動は親公認でした。『行くな』といっても絶対に行くわけですし、ファン活動のためにバイトを必死に頑張っているのも親は知っているから、止めませんでしたね。一日中プロレスのビデオを観てるし、部屋にいればスクラップブックを整理したり、CDを聴いたり、ずっと女子プロレス漬けですから、親も分かっているわけです。遠征するにも必ずグループで行動していましたし、変なことをやっているわけではないので、親としては逆に安心だったのかもしれませんね」

 親衛隊というと「鉄の掟」がありそうなイメージだが、意外にもアットホームで和気あいあいとしていたという。そんななかで、伊藤はファンからレスラーになった少女とも運命的に出会っている。

伊藤「私が所属していた親衛隊は何をしちゃいけないという規則があるわけでもなく、アットホームでした。クラッシュの親衛隊が全女の方針で潰されて、千種さんと飛鳥さんのそれぞれの親衛隊やファンクラブになったので、余計に隊員同士の結束力が強まったんだと思います。そんなアットホームな雰囲気でやっているなかで、1人の女の子が挨拶に来てくれたんです。私たちは一応古株だったので、その女の子が『飛鳥のファンクラブの〇〇です。仲良くしてください』って。尼崎の試合会場だったんですけど、いかにも飛鳥ファンという感じのボーイッシュな女の子でした。ただ、すぐに会場に来なくなって『辞めちゃったのかな』と思っていたんですが、後年にプロレス雑誌をなんとなく見ていたらその女の子が『バット吉永』として女子プロレスデビューしていたんですよ。ファンからレスラーになる子は結構いるんですけど、間近でレスラーになった子は彼女が初めてでしたね」

 そんな筋金入りのクラッシュファンだった彼女にとっても、『極悪女王』は大満足の作品だった。細部に至るまでの再現度の高さと「女子プロレスラーそのもの」になりきったキャストの熱演に心を震わされた。

伊藤「本当に『極悪女王』は素晴らしい作品です。ただ2つだけ残念なことがあって。1つはやっぱり松永4兄弟(ドラマでは松永3兄弟)の健司さん、高司さん、国松さん、俊国さんが誰1人としてこの作品を見られなかったこと。それが本当に残念だった。あともう1つは、私もエキストラとして親衛隊役で出たかったなってことですね(笑)」

 『極悪女王』はダンプ松本の引退で幕を閉じるが、物語はその後も続く。長与と飛鳥が1989年に引退し、クラッシュ・ギャルズは解散となるが、長与が93年に、飛鳥が94年に復帰。2000年に「クラッシュ2000」(2005年に封印)としてタッグを再結成した。この時、伊藤はある誓いを立てたという。

伊藤「『クラッシュ2000』が誕生した時、かつてクラッシュに青春を捧げた“あの頃の少女たち”がプロレス会場に戻ってきたんです。それを目の当たりにして『いい光景だなあ』と思いました。みんなもう少女ではなくなって、結婚したり、子どもが生まれたり、プロレスを離れて普通の生活を送っていたのに、『クラッシュがまた見られるなら』と会場に帰ってきたんです。私は1998年にジャッキー佐藤さんを取材できたんですけど、そのジャッキーさんは翌99年に41歳の若さでお亡くなりになられた。その翌年に『クラッシュ2000』がよみがえった時に、ビューティ・ペアはもう一生揃うことができないと痛感したんですね。でも、千種さんと飛鳥さんは健在です。だから、2人が今後揃って何かをしたいと言ったら、その時はできる限りのお力添えをしたいと心に誓いました。来年はクラッシュのデビュー45周年で、『クラッシュ2000』の解散からちょうど20年。もし2人がアクションを起こすなら、全力でサポートしようと思っています」

 彼女は「永遠のクラッシュファン」だ。そしておそらく、同じ熱い思いを秘めた女性たちが全国に無数にいる。クラッシュの伝説はまだ続いているのだ。

SNSや動画サイト、芸能、時事問題、事件など幅広いジャンルを手がけるフリーライター。雑誌へのレギュラー執筆から始まり、活動歴は15年以上にわたる。

さとうゆうま

最終更新:2024/11/02 19:00
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