『俺の家の話』と宮藤官九郎作品の現在位置─野木亜紀子に引きずられるドラマ評と失われた“暴力性”
#テレビ #ドラマ #長瀬智也 #宮藤官九郎 #俺の家の話 #能 #磯山晶 #橋田壽賀子 #野木亜紀子
長瀬智也引退作品(?)にして、脚本の宮藤官九郎とTBS系テレビドラマでは4度目のタッグとなった『俺の家の話』が完結した。
『タイガー&ドラゴン』(2005)『うぬぼれ刑事』(10)に続く、西田敏行と3度目の共演作となった今回は、老人介護、能、プロレスの三題噺からホームドラマを展開していく試みで、ネット上では絶賛のレビュー記事が多く見受けられた。
しかし、『タイガー&ドラゴン』には及ばなかったかな、というのが、正直な感想だ。『うぬぼれ刑事』よりは面白かったが。
それこそ、西田敏行より年上である筆者の父親にも感想を訊いたが、「昨年末、久しぶりに観た『タイガー&ドラゴン』の一挙再放送と比べると、それほど面白くなかったな」と返ってきた。
まあ、数ある宮藤官九郎脚本作品の中でも屈指の傑作だった『タイガー&ドラゴン』を超えていくのは至難の業なのだが、松竹梅の「竹」に留まった感はある。【※01】
【※01/一応、過去の視聴メモからTBS系での宮藤作品で基準を示すと『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』『流星の絆』が「松」、『マンハッタンラブストーリー』『吾輩は主婦である』『俺の家の話』が「竹」、『うぬぼれ刑事』『ごめんね青春!』『監獄のお姫さま』が「梅」になる。】
擬似家族、落語、アウトローの三題噺だった『タイガー&ドラゴン』は、構造的には市川森一の名作『淋しいのはお前だけじゃない』(82)の本歌取りのようなドラマで、現実と大衆演劇の二重構造で見せる仕掛けを「落語」に置き換える形で、三題噺の要素を有機的に結びつけていた。
今回の『俺の家の話』では落語が「能」になっているが、三題噺を結びつけるほどの構成の妙には至っていない。「大衆演劇」や「落語」と違って大衆向けの娯楽とは言い難いので、ドラマの仕掛けに使うには視聴者側の敷居が高いのだ。父親の世代(戦前生まれの焼け跡世代だ)なら「大衆演劇」「落語」の基礎知識もあるが、その父親でも「能」は知らない。
なので、これは仕方のないことだし、むしろ、伝統芸能の保守性が機能不全に陥った家族の問題とつながっている、という側面が強調されていた。「能」と「プロレス」。「静」と「動」。「家族」と「疑似家族」。それぞれが対比されつつ、何処かで通じているという構図も分かりやすい。
だが、全体として見ると、それらが噛み合っているのかいないのか、判断が難しい。
戸田恵梨香演じるヒロインが「後妻業の女」であることなど、普通のホームドラマでは引っ張るはずの問題が早々に解決されるのは、お約束を外していく意図だったのだろうが。
宮藤官九郎という脚本家の強みは、リアルタイムの社会状況や風俗を過去のサブカルチャーと結びつけ、トリッキーな構造の喜劇へ仕立て上げる技術に長けていることだが、今回は全10話の尺にすべての要素を収めることに汲々としていた、という印象だった。
シーン単位では喜劇として笑えるのだが、小さな笑いの積み重ねがなかなか物語としての面白さへと繋がらないのだ。現在の社会状況へ配慮し、対応するだけで精一杯のようにも見えた。
ネット上でのドラマ評の多くはその配慮と対応を褒めているのだが、視聴者の立場でそれを褒めてもなあ、とも思うし、筆者の父親はもっと身も蓋もないことを言っていたのだが、筆者は一応、コラムニストなので抑え気味に筆を進める。
実際、テレビドラマへの評価は、脚本や演出だけでなく、俳優なども含めて個人的な趣味に大きく左右されてしまうので、書きづらいものだが、思い出したのは『逃げるは恥だが役に立つ』(16)や『MIU404』(20)へのドラマ評だ。
TBS系の金曜ドラマということもあってか、巷の『俺の家の話』への評価もまた、野木亜紀子脚本作品の社会状況への対応力を基準として、引きずられているように見える。実際、現在の社会状況を考えると野木亜紀子のような作劇手法が正解なのだろうが。【※02】
【※02/その野木でも『獣になれない私たち』は賛否両論だったが、これは良くも悪くも「ドラマのTBS」のブランドイメージに収まっていくTBS系ではなく、娯楽作品とイデオロギー的な作品の振れ幅が大きく、視聴者が後者に不慣れな日本テレビ系の水曜ドラマ枠というのが、多分に作用していたような気がする。】
ポリコレ、という言葉はあまり使いたくないし、それだけで括られるものでもないのだが、宮藤官九郎もまた、現在の社会状況に対する「テレビドラマの正解」を求めて書いている。
ただ、正解が面白いとは限らない。『いだてん~東京オリムピック噺~』(19)にしても『俺の家の話』にしても、全方位へ丁寧に配慮した結果、テーマがあちこちに散らかったまま、情報密度が高まりすぎているのだ。随所に笑いは入っているが、『池袋ウエストゲートパーク』から『流星の絆』『あまちゃん』(13)あたりまでの、暴走と紙一重のテンポの良さや随所に見え隠れしていた暴力性も弱くなっている。
悪く言えば「詰め込みすぎて散漫」ということになるのだが、これに関しては、年々、配慮しなければならないことが多くなり、情報の取捨選択が難しくなっている、テレビドラマ全体の事情もあるだろう。実際、宮藤本人もインタビューで「歳を取ったのだから、昔のようには書けない」と言っているが、それ以上に引っかかるのは、宮藤作品の中に野島伸司的な……中二病的な要素がなくなっていることだ。
母親というものの邪悪さを書くことができないので、最初から不在にしていることは、もともとの資質(育ちや性格)が野島伸司と正反対であるから仕方ないし、「あんなものは90年代の流行に過ぎなかった」と言ってしまえばそれまでなのだが、若い登場人物がすべて書き割りで、エキセントリックな要素がほとんど省かれている。深刻に悩んでいるのは中年(長瀬)と老人(西田)だけなのだ。
かつての「王道」ホームドラマを再現しようという狙いは分かるが、これはこれでどうなのだろう?
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