『麒麟がくる』一方その頃、徳川家康はうんこを漏らしていた!? 歴史に残る“脱糞伝説”を紐解く
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大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)が、ますます盛り上がりを見せている。ドラマをより深く楽しむため、歴史エッセイストの堀江宏樹氏が劇中では描ききれない歴史の裏側を紐解く──。前回はコチラ
理想的な政治が行われている世にだけ現れるという伝説の霊獣、麒麟。
その一方で、本年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の世界は、麒麟が来る気配すらなくなった混迷状態に突入したように思えます。
この後の歴史を見ていると、麒麟とは、戦乱の世を終わらせ、徳川幕府を打ち立てた徳川家康ということになるわけですが、最近の『麒麟~』に徳川家康の出番はありません。実際、家康が徳川幕府を開くのは、ドラマの時代よりずっと先のことなのですが、では『麒麟がくる』の時代に、未来の麒麟こと家康は何をしていたのでしょう?
最近の『麒麟~』では、足利義昭が武田信玄を動かし、織田信長を討ち取ろうとしている姿が描かれています。これによって恐らく、近いうちに家康はドラマに再登場すると思われます。
元亀3年12月22日(1573年1月25日)、武田軍と、徳川・織田の連合軍が激突した「三方ヶ原の戦い」がありました。そしてこの戦こそが家康にとっては、幾重もの意味で「運命の戦」になったのは間違いありません。筆者がそう言い切る理由は、この戦いを契機に、家康に「脱糞伝説」が生まれてしまったからですね。
徳川家康といえば、日本史屈指の苦労人キャラといえます。幼少時から苦労しつづけ、その苦労に学び、それゆえ後に大成できたという「成功哲学」を体現する存在でもあります。
そんな家康の人生につきまとう恐るべき「脱糞伝説」の真偽について、今回はお話ししていきたいと思います(笑)。
「三方ヶ原の戦い」において、織田家からの援軍を含む、徳川家康が率いた軍の兵は諸説ありますが、1万5千人程度ではないでしょうか。多く見積もっても約2万程度だったと思われます。
一方、武田信玄率いる武田軍の兵は約3万。しかも武田兵の気迫はかつてないほどで、通常攻略に1カ月はかかる規模の城をなんと3日で落とすなど、ものすごい勢いだったわけです。そんな武田軍を迎え撃たねばならなくなった徳川家康は、「三方ヶ原の戦い」の前に、武田軍相手に「一言坂の戦い」、そして「二俣城の戦い」という二つの小規模な戦闘を行っており、その両方に惨敗しています。
ちなみに「一言坂の戦い」の名前は、よく覚えておいてください。
惨憺たる戦果を前に、激昂してしまった家康は、止める部下たちを振り切り、全軍を率いて三方ヶ原に向かった武田を追撃。しかし、武田軍の移動スピードは家康の想定を遙かに上回っており、武田を撃つ予定だった三方ヶ原において、逆に徳川軍を万全の状態で待ち構えていた武田軍と接触、家康にとっては大変不利な状況のままで戦が始まってしまったのでした。そして、結果はまたもや惨敗です。
この時は、ただ戦に負けるだけでなく、命の危険も感じるほどの大敗であり、その恐怖を徳川家康は忘れられず、その後何度も夢にうなされました。現代でいうPTSDのような状態ですね。しかも、徳川家康は恐怖のあまり、馬上で脱糞までしていた(のに気づかないほどだった)……!
という脱糞伝説まで出てくる始末なのですが、どうやらこれはさすがに「ガセ」で、盛られた話だったようです。
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