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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 元山口組顧問弁護士・山之内幸夫氏インタビュー

現役ヤクザも視聴する78歳の元山口組顧問弁護士・山之内幸夫が「アウトロー系YouTuber」に大転身した驚愕の理由

暴力団に怯まなかった弁護士が顧問になるまで

現役ヤクザも視聴する78歳の元山口組顧問弁護士・山之内幸夫が「アウトロー系YouTuber」に大転身した驚愕の理由の画像3

――若い世代は山口組に顧問弁護士がいたことを知らない人も多いでしょう。きっかけはなんだったのでしょうか?

山之内 1975年に弁護士になって、大阪で損害保険の顧問弁護士をしていた先生の事務所に、いわゆるイソ弁(居候弁護士の略で、法律事務所に雇われてはたらく弁護士のことを指す)として入りました。その弁護士事務所は損保のトラブル案件を示談で解決するのが主な業務だったのですが、示談交渉というのは嫌な仕事なんですよね。

――以前、別の弁護士から「昔の大阪では示談交渉の際にヤクザが介入してきた」という話を聞きました。当時の大阪ではなにかとヤクザを頼る文化があったとも聞きますね。弁護士は二の次で。

山之内 そうですね。当時、「示談屋」は堂々と商売していて、その中には暴力団だけでなく、右翼や利権に絡もうとした「エセ同和」をはたらく者などが跋扈する、ロクでもない詐欺と恐喝の巣窟でした。そんな世界で、2年で事務所を独立した私はイソ弁時代に培った示談能力を売り込み、安田火災海上保険(現・損害保険ジャパン)の自動車交通事故の賠償部門の弁護士として雇われることになりました。

――弁護士が嫌がる仕事を一手に引き受けたのですね……。脅されることもありましたよね?

山之内 もちろん。それでも「怖い」という感覚はなかったですね。逆に「怯んではいけない」という使命感が強かったです。ヤクザと交渉するなんて、それまでの人生ではなかったのですが、「負けたらあかん」という気持ちはずっとありました。

――もともと、暴力団とは敵対する関係だったのですね。というか、交通事故の示談交渉のはずですよね……?

山之内 もはや、弁護士に回ってくる示談交渉というのは詐欺や恐喝案件ばかりです。ただ、とある暴力団の示談屋とやり合っているうちに、徐々に親しくなっていきました。私が一歩も引かない姿勢を見て、相手も「根性あるな」と思ったのでしょう。すると、ある時、留置所から「刑事弁護の弁護人として面会に来てください」という連絡がありました。いざ行ってみると、そこにいたのはこれまで散々やり合ってきた示談屋。いざ、自分が逮捕されると、私を頼ってくれたんですね。

――「昨日の敵は今日の友」ではないですが、山之内さんの実力を相手もわかっていたからこそ、依頼してきたのでしょうね。

山之内 そのうち「あの先生はよう動いてくれる。腕はしっかりしていて、根性もある」と、私の名前が口コミで広がっていきました。そして、徳島の心腹会系列にあたる大阪の組織の組員が捕まった際、私が弁護したのがきっかけで、「鶴橋の親分」こと三代目山口組若頭補佐兼本部長・小田秀臣さんに頼まれ、小田秀組の顧問弁護士になります。

――ヤクザ界の有名人からのオファーですね。山之内さんの心境はどうだったのでしょうか?

山之内 さすがに驚きました。ただ、小田秀さんは「これからの時代、ヤクザも顧問弁護士を持たなあかんのや」という考えを持っていて、それで私に白羽の矢が立ったんですね。

――小田氏は山口組三代目・田岡一雄組長の死後、次期組長の継承をめぐり、1984~1989年にかけて四代目を襲名した竹中正久組長率いる山口組と、それを不服として離反した一和会の間で勃発した「山一抗争」のキーマンのひとりでもあります。彼は山口組が分裂した際、竹中氏の就任に反対する立場でした。

山之内 そうですね。そして、抗争が本格化する前(配下の小田秀組幹部たちに離反され、一和会に参画する前)に小田秀さんは引退したため、顧問を引き受けた期間は3~4年でした。

――そうすると、山之内さんが山口組本家の顧問に就任するきっかけは誰が作ったのでしょうか?

山之内 後に五代目山口組若頭となる宅見勝さんですね。そこから四代目山口組の顧問弁護士になったのですが、山一抗争で組長の竹中さんは殺害されてしまいました。新たな組織作りが始まるのですが、そこで後に最高顧問を務める岸本才三さんや五代目山口組組長に就任した渡辺芳則さんたちと親しくなります。

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