『おむすび』第36回 「糸島との別れ」が全然名残惜しくない……また主人公の「ウソ」が発動中
#おむすび
NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』も第8週。6歳のときに神戸で震災にあってからの12年間を過ごした福岡・糸島から神戸に引っ越してきた今週は「さよなら糸島 ただいま神戸」ということで、すっかりギャル姿も板についてきた結ちゃん(橋本環奈)と両親との神戸での生活が始まるようです。
それにしても、見送り寂しくない? 第36回、振り返りましょう。
■書道部もハギャレンもいない
神戸にナイスな美容室の居抜きテナントが出たことで、再びハサミを握ることにした結ちゃんパパ(北村有起哉)。それに伴い、栄養士になることを決めた結ちゃんも神戸の専門学校への進学を決意。ママ(麻生久美子)と3人で神戸に引っ越すことになりました。
旅立ちの日、駅のホームに見送りに来たのは、おばあちゃん(宮崎美子)と幼なじみの陽太(菅生新樹)、それにあんまりよく知らない農家仲間のおじさんの3人だけ。ドラマがすっ飛ばした高1夏から高3夏の2年間も含めて、結ちゃんはハギャレンにも書道部にも積極的に参加していたとされていましたが、仲が良かったはずの女の子たちは誰も見送りに来ません。それどころか、結ちゃんが女友達と将来について相談したり、別れを惜しんだり、それでも互いに勇気づけたり、そういうシーンはひとつもありませんでした。
以前から感じていたことですが、このドラマは「女友達」に対してとことん冷たいよね。少女期の女性にとって、女友達という存在が人格形成に及ぼす影響を完全に無視しているということです。ハギャレンも結局のところ主人公に「ギャル」という記号を付加する役割しか与えられなかったし、書道なんてイケメン野球カッパ(佐野勇斗)を応援するためのガジェット作りの道具でしかなかった。書道部の恵美ちゃんやハギャレンのリサポンと、結ちゃんが心を開いて会話をしたシーンなどひとつもありませんでした。
そのくせ、姉のアユ(仲里依紗)には女友達だった故・マキちゃんの生きたかった人生をそのまま背負わせている。そして、それがまるで呪いであったかのようにアユに禍根を残している。
作品における「女同士の友情」に定義や一定の価値観がないのが、すんごく気持ち悪いんです。この見送りのシーンに女の子がひとりも来ていないこと、女友達との別れを描かなかったことで、改めてそんなことを感じました。
まあ、それはそれとして一家は神戸へ。結ちゃんは立て直された実家を見て震災を思い出し、表情をなくしてしまいますが、ガヤガヤと湧いて出てきた神戸のみなさんの賑やかな歓迎によって、なんとか持ち直したご様子。彼氏のカッパも電車で30~40分の大阪にいますし、新生活が始まりますということで、次回へ。
■全然、糸島が名残惜しくない
電車に乗って糸島を去る結ちゃんは「さよなら糸島」なんてセンチメンタルな表情を浮かべていましたが、どうにも共感できないんですよね。
私たちが見ていた糸島での結ちゃんは、何をやっても全然楽しそうじゃなかった。ハギャレンに参加することになっても活動はだいたい糸島じゃなく都会の天神だったし、糸島時代の2大エピソードであるフェスとカッパへの告白も、どこにでもある浜辺と神社だったし、あとは駅と自宅の往復だけだし、ようやく結ちゃんが「(糸島での)生活を楽しもう、やりたいことやろう」と決意した瞬間に2年間のタイムリープが発生したし、見る側として糸島という土地と物語がまったくリンクしてないんです。だから、全然名残惜しくない。引っ越しシーンにカタルシスがない。
だから、結ちゃんが糸島への土着を象徴した人物である陽太に「糸島に来てすぐ馴染めたのも、ずっと楽しく過ごせたのも、陽太のおかげやけん」なんてしおらしく語ってみても、「ウソつくな」って思っちゃうんだよな。
少なくとも、全然、まったく、ずっと楽しくなかったと言い続けてきたのがこのドラマだったはずなんです。震災のトラウマによって「どうせ全部消えちゃう」という強迫観念があって、だから何も楽しめない。そういう人物だったとドラマが言っている。
それが陽太とは関係のない、陽太が疎ましく思っていたギャルたちとの出会いによって少し楽しくなった、というのがドラマの筋書きだったはずなんです。その筋書きだってちゃんと成立してたとは思わないけど、せめて自分たちが提示してきた物語を裏切るようなセリフだけは主人公に吐かせるなよ、と。
ギャルの掟の第3条に「ダサいことは死んでもするな」ってあったと思うけど、陽太との「感動の別れ」のシーンをつまみ食いするために主人公の人物造形の大前提をひっくり返すって、かなりダサいと思うんですよ。知らんけど。
(文=どらまっ子AKIちゃん)
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