大谷のドジャースは元々ニューヨークのモノ ワールドシリーズで知るチームの「アメリカン・スピリッツ」
#大谷翔平 #MLB #ドジャース
大谷翔平の活躍で日本人は米大リーグに驚くほど詳しくなった。ひいきの大リーグチームを持つ野球好きも増えたが、大谷が所属するロサンゼルス・ドジャースのファンはとびきり多いようだ。そのドジャースは元々、東海岸のニューヨークのチームだった。今シーズン、ナショナルリーグの王者となったドジャースは「故郷」のニューヨークで、アメリカンリーグの覇者ニューヨーク・ヤンキースとワールドシリーズを戦っている。なぜドジャースは4000キロも離れたロサンゼルスに移転したのか。そこには現状に甘んじることのない「アメリカン・スピリッツ」があった。
ニューヨークのブルックリン。住民の憩いの場であるプロスペクトパークの東側、クラウンハイツと呼ばれる地域に、ひときわ巨大なアパートがそびえ立つ。築60年を超える「エベッツ・フィールド・アパートメント」だ。赤茶けたレンガ造りの建物は、7棟が結合して建てられた異色の設計で、最も高い階層は25階だ。居住世帯は1300以上。ニューヨーク州の住宅補助事業の対象で、低所得層が多く住む。
アパートの正面玄関につながるコンクリートの通路を歩くと、小さな銅板が組み込まれているのに気がついた。落ち葉やゴミをはらいのけて銅板に描かれた活字をみると、「Dodgers」の文字があった。
かつてこの場所には、ロサンゼルス・ドジャースの前身であるブルックリン・ドジャースの本拠地球場「エベッツ・フィールド」があった。
ドジャースは1883年、ブルックリンで産声を上げた。同年、現在はサンフランシスコに本拠地を移したニューヨーク・ジャイアンツが誕生してナショナルリーグ入り、少し遅れて1903年にニューヨーク・ヤンキースが設立された。
ニューヨークはマンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、クイーンズ、スタテンアイランドの5地区で構成されるが、一時はマンハッタンにジャイアンツ、ブルックリンにドジャース、ブロンクスにヤンキースと5地区のうち3地区にプロ野球チームがあり、ニューヨーカーを熱狂させた。
発足以来、現在までの各チームの成績は輝かしい。ヤンキースがリーグ優勝41回でワールドシリーズ制覇27回、ドジャースがリーグ優勝25回でワールドシリーズ制覇7回、ジャイアンツがリーグ優勝23回でワールドシリーズ制覇8回。いずれも大リーグを代表する名門チームだ。
特に1947~57年はニューヨークの「栄光の時代」といわれる。48年を除けば、この3チームのうちいずれかのチームがワールドシリーズに出場していた。「ニューヨークが全米の野球を支配していた」として語られる。
しかし、ドジャースとジャイアンツはその57年のシーズンを最後にニューヨークに別れを告げた。
ジャイアンツは「栄光の時代」でも2回リーグ優勝し、ワールドシリーズも1回制覇していたが、チームとしては全盛期を過ぎていた。04~24年にかけて、9回のリーグ優勝、3回のワールドシリーズ制覇を果たしたジャイアンツはニューヨーカーのせん望の的だったが、弱くなると市民の視線は冷たくなり観客動員数は大幅に減少した。
第2次世界大戦後の開発が進む中、本拠地をマンハッタンに持つジャイアンツにとっては球場の維持さえ容易ではなかった。経営難に陥り、抜本的な打開策を迫られ、ニューヨークからサンフランシスコに移転することを決めた。
一方でドジャースは絶頂の時を迎えていた。「栄光の時代」はリーグ優勝6回、うちワールドシリーズ制覇1回。47年には黒人初の大リーグプレイヤーであるジャッキー・ロビンソンがドジャースでデビューし、スポーツだけでなく社会全体に影響力を及ぼす存在となっていた。
球団経営も順調で、52~56年で黒字を達成したのはナショナルリーグではドジャースだけだった。
それでも球団オーナーのウォルター・オマリーは満足していなかった。自動車の普及に球場の環境がそぐわないことが、今後の球団経営に大きな問題を及ぼすだろうと考えていた。
ブルックリンは40年代まで縦横無尽に路面電車が走っていた。ドジャースのチーム名の由来も、路面電車を潜り抜けるように球場にやってくることを意味して「素早く身をかわす人」という意味の「Dodger」という単語にある。「エベッツ・フィールド」周辺も、今後の自動車時代に耐えられる状況にはなかった。
さらに、オマリーには大きな夢があった。一大娯楽産業を打ち立てたウォルト・ディズニーのように、野球とエンターテイメントの一体化をめざした。
ニューヨーク市当局などとは、市内クイーンズへの移転を約10年に渡り交渉してきたが、オマリーが納得する移転先は見つからなかった。
そこで目をつけたのが西海岸のロサンゼルスだった。ロサンゼルスは急成長の只中。土地も多く、資金調達もしやすかった。
だが、既存の野球文化への「忠誠心」はなく、ニューヨークのチームが移転して市民に受け入れられるのかは、皆目見当もつかない。多くのファンを置き去りにする罪悪感もあった。
それでもオマリーは決断し、57年5月28日のMLBオーナー会議で、大リーグ史上最も「革命的」といわれるチーム移転が了承された。
過去の栄光にすがらずに新しい時代を切り開く「アメリカン・スピリッツ」がドジャースの今を支えている。
ドジャースタジアムは美しい球場として野球ファンからの評判が高い。「男が彼女を連れて行きたくなるような場所」とオマリーが常に語っていた言葉が、現在も息づいている。
日本経済は過去から抜け出せず「ゆでガエル」状態に陥っている。大谷の活躍に胸を躍らせるだけでなく、ドジャースの歴史から日本を振り返る機会にしてもいいかもしれない。
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