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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 三条天皇からの関白就任依頼を断る道長
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義40

『光る君へ』三条天皇からの関白就任依頼を断る道長、そして孤立する帝と黒幕としての道長をどう描くか

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』三条天皇からの関白就任依頼を断る道長、そして孤立する帝と黒幕としての道長をどう描くかの画像1
一条天皇を演じる塩野瑛久(写真/Getty Imagesより)

『光る君へ』第40回、「君を置きて」のメインは、一条天皇(塩野瑛久さん)の崩御でした。正確には三条天皇(木村達成さん)に譲位後の崩御なので一条院とすべきなのですが、本稿ではわかりやすさを優先で、一条天皇とさせていただきます。

 平安時代では病気が重くなり、いよいよ死が迫った時に、出家するのが習わしでした。そうすると生前の罪障が軽くなると信じられていたからです。剃髪し、坊主頭になった一条天皇こと塩野瑛久さんですが、水際立って美しく見えた気がします。清少納言(ファーストサマーウイカさん)が、お坊さんは顔がよくないとダメ、顔に見とれて、説法のありがたさもよく理解できると言っていたその意味を納得させられた気がしました(『枕草子』第30段)。

 第40回のタイトル「君を置きて」は、一条天皇の辞世の和歌の一節です。一条天皇が消え入るような声で、途切れ途切れに言っていたのでよく聞こえなかったという読者もおられるでしょうが、本当にドラマのように
「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬること……」
あたりで天皇は何も言えなくなってしまったのかもしれませんね。

 史実でも藤原道長(柄本佑さん)の証言によると、一条天皇がこの歌を詠んだ時、几帳を隔てたそばに中宮・彰子(見上愛さん)が控えていたそうですし、ドラマの視聴者としても「はかない現世に彰子を残し、私は塵と散っていく」と言っているようにしか聞こえない場面だったかもしれません。

 しかし、一条天皇の蔵人頭だった藤原行成(渡辺大知さん)は、天皇の辞世に出てくる「君」が彰子ではなく、亡き皇后・定子(高畑充希さん)であると確信していました。行成の日記『権記』にそう書かれています。

 たしかに天皇の辞世を読み返してみると、「露」という言葉で始まっていることが注目されます。

 亡き皇后・定子が3首の辞世を残す中、もっとも有名な歌が
「煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ」
なのですが、その中にも「露」という言葉が出てくることに気づかざるをえません。

 この歌に言葉を補った「要約」が「私(定子)は一条天皇がいる現世にとどまり続けたい。だから火葬され、煙になって天に昇ることは拒絶したい。私は煙ではなく、草の露となって帝の傍にいます」となります。

 つまり、一条天皇は定子の最後の歌にかぶせて自分の辞世も詠んでいたことを、天皇に長くお仕えした行成はその場でピンと来ていたのです。前回は道長が圧力をかけ、定子が生んだ第一皇子・敦康親王(片岡千之助さん)ではなく、彰子が生んだ第二皇子・敦成(あつひら、濱田碧生さん)親王を三条天皇の東宮(皇太子)にゴリオシする展開が描かれていましたけれど、まぁ、実際にあのようなトラブルが起きた直後だから、一条天皇も道長への反抗心を辞世で披露し、世を去っていった……と考えるほうが自然な気もします。

 ところで、行成は天皇の辞世の歌を
「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」
と補完しています。

 当時の貴族や天皇など貴人は一般的に火葬されるのが通常ですから、天皇も自分が火葬になって、塵と消えゆく運命であることは逃れようがないとわかっているのだけれど、それは自分に先んじて亡くなり、露となった定子をこの世に置いていくことだから悲しいといっていると行成は解釈したのです(藤原行成『権記』)。

 その一方で、藤原道長は日記「御堂関白記」の中で、天皇の辞世の歌を
「露の身の 草の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」
と書いています。「ことぞ悲しき」は7文字の句ですが、「ことをこそ思へ」だと8文字で、和歌の最後としては「字あまり」になってしまいますよね。なんらかの作為を感じる部分です。

 これが道長の歌のセンスだったのかもしれませんが、おそらく「悲しき」で終わらせると、道長の愛娘・彰子ではなく、亡き皇后・定子の影がちらつくため、道長としてはそれがイヤだったのでしょう。天皇が、お側に控えている彰子をさし置いて先立たざるをえない自分の不幸について、考えてしまうというふうに読めるよう、和歌の語尾を微妙に小細工した「疑惑」も出てくるのです。

 このように複雑ではありますけど、いかにも平安時代の貴族らしい情念の世界ですし、描き方次第でドラマとしてもおいしくできる部分だったので、ここはサラッと流すより、もっと肉薄していただきたかった気はします。

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