『光る君へ』道長次女・妍子と18歳上の帝との結婚生活、そしてドラマで描かれない紫式部の“深い闇”
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『光る君へ』も前回、「とだえぬ絆」で第39回を迎えました。そろそろドラマも大詰めの時期に入ってきたようです。突然ヒゲを生やして登場した一条天皇(塩野瑛久さん)が最初、誰だかわからなかった筆者ですが、登場人物も少しずつ加齢し、宿病を抱えたり、亡くなる者も見られるようになってきました。
元気だった一条天皇も前回で闘病モードに入りましたが、まひろの弟・藤原惟規(高杉真宙さん)が、久々に国司に任官された父・為時(岸谷五朗さん)とともに越後国(現在の新潟県)に下ったものの、道中で発病し、そのまま越後で亡くなってしまったのには驚きましたね。
惟規が死の床で紙と筆を求め、辞世の歌を書きつけるさなかに亡くなったのも、後世の歌論書『俊頼髄脳』などに採用されているので、本当にあったことかもしれません。研究者の中には、紫式部(吉高由里子さん)も為時に同行していたのではないかともいわれています。生年不詳の為時ですが、すでに60代で、当時では40代以上が「高齢者」でしたから、ドラマのセリフ同様に「死」を意識する年齢に突入していました。
だからこそ、一説に紫式部も弟・惟規とともに父を支えるべく、越後に同行していたものの、惟規に続いて紫式部まで同地で亡くなってしまったのではないかと見る研究者もいます。実際、為時は越後の国司としての任期を1年残し、長和3年(1014年)6月に京都に戻っており(理由は不明)、これは国司として勤めれば勤めるほど稼げるという当時の常識からはかけ離れていました。
為時は60代になっても自分の代理人=代官を使おうとせず、あるいは経済的に使えず、自分自身で家族に支えられながら越後に向かったにもかかわらず、です。やはり任国・越後でなにか相当ショックなことが起きて、お金のことなどどうでもよくなって、任期途中での辞任となったのでしょう。為時が亡くなったのは長元2年(1029年)頃ですが、彼自身も越後国の気候に馴染めず、病気がちだったのかもしれませんね。
病気といえば、一条天皇の体調不良と前後するように、史実の道長(柄本佑さん)も寝たきりになるほど体調を崩しました。左大臣・道長の政治に協力的だった藤原実資(秋山竜次さん)は道長の闘病を日記(『小右記』)に事細かく記し、心配そうな様子を見せています。
一条天皇も前回のコラムでは「ドラマではお元気そう」などと書いた記憶がある中、突然の発病だったので、道長もそうなるかもしれませんが、ドラマで寝込む道長はほとんど描かれることはなかったように記憶しています。一度、彰子(見上愛さん)の入内のころに体調不良だったことがあるくらいでしょうか。史実の道長はしばしば病床に伏していたのですが、その中でも一条天皇崩御直前の病状は重く、食事すらまともに取れない容態が続きました。
興味深いことにこの時期、道長とその長男の頼通(渡邊圭祐さん)、義母にあたる藤原穆子(石野真子さん、源倫子・黒木華さんの母)など道長に近い者の屋敷に、虹が立つ怪奇現象があって、誰かが強力な陰陽師を雇って道長たちを呪詛しているのではないか、と藤原実資が考えても無理はない状況でした。現在では虹はなんとなく良いものだと思われていますが、平安時代では、凶兆にもなりうる自然現象だったのです。
こういう超自然的な現象や、それにおののく人々の姿も『光る君へ』は意図的にほとんど排除してしまっているので、そういうところが、ドラマから時代モノとしての奥行きを奪ってしまっているのかな、とも思われますね……。
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