『光る君へ』紫式部の娘・賢子、道長の息子たちとも…その恋多き半生
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
前回の『光る君へ』第37回「波紋」では、藤式部ことまひろ(吉高由里子さん)が書いた『源氏物語』の人気が宮中で確固たるものになりゆく中、久しぶりに清少納言こと「ききょう」(ファーストサマーウイカさん)が、何やらもの申したげな表情で再登場する様子も描かれました。
お産で土御門第に宿下がりしていた彰子(見上愛さん)が宮中に戻るとき、一条天皇(塩野瑛久さん)へのお土産として、紫式部の原稿を清書し、製本する『紫式部日記』の記述をもとにした映像もありましたね。
物語が美しい紙に、藤原行成(渡辺大知さん)など「能書家(=書の達人という意味)」の美しい文字で清書されていたので目を引かれた方は多いでしょう。しかしドラマ放送後の「紀行」においては、平安時代に作られた「装飾本」の実物――本願寺所蔵の『三十六人家集』の実物が登場し、その華麗さにはさらに驚いた方も多いのではないでしょうか。
この作品の「料紙」として使われているのは、「継ぎ紙」です。文字通り、さまざまな色や材質の異なる紙を手や刃物で切って、ふたたび糊で継ぎ合わせて作られ、紙自体が完全に一点ものの高級品です。そのような料紙を使った写本はたんなる書物の域を超え、宮廷の粋人たちの総力を集結した「総合芸術」だったと考えるほうが正確でしょう。
当時の上流階級における文学とは、作品の内容だけでなく、料紙やそこに書かれた文字、挿し絵などが醸し出す雰囲気を堪能し、場合によってはそれを誰か美声の者に読ませ、耳からも楽しむものでした。余談ですが、当時でも「黙読」はありました。平安時代後期に、話題の『源氏物語』を読みたいと願いながら成長した女性が、物語の実物を入手すると、昼夜を忘れて読みふけったという記述が菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の『更級日記』には出てきます。
ドラマには天皇・中宮主催による朗読会という形での登場でしたが、『紫式部日記』にも、一条天皇が側近の女房に『源氏物語』を朗読させながら「この作者は『日本書紀』の講義をするべきだね。学識がおありだ」という感想を漏らしたことが書かれています。8世紀初頭に成立し、独特の和製漢文で書かれた『日本書紀』(ドラマには当時一般的だった『日本紀』の呼称で登場)は、平安時代にもなると「一般人の手には負えない難解な書物」という扱いでしたが、宮廷人の間では重視されていました。
平安時代前期には、数十年に一度のスパンで、『日本書紀』の購読会――つまり「日本紀講筵」が宮中の公式行事として行われた記録があります。しかし、それも10世紀後半には廃れてしまいました。それから百数十年後の生きる「文学好き」の一条天皇としては、かつては一流の男性学者が担当していたという『日本書紀』の講義を紫式部にまかせてみようか……と思ったらしいのですが、それは残念ながら実現しませんでした。
紫式部は天皇の思いつきをきっかけに「日本紀の御局」などというニックネームを与えられたことを『紫式部日記』ではひどく嫌がって見せています。「漢文は男にも難解だとされるものだから、女の私が『日本書紀』の講義などしたら、どんな悪口を言われるかわからない」というのが彼女の本音でしょうか。同性からは「でしゃばり女」と陰口を叩かれ、男性からは「とっつきにくいインテリ」という目で見られるのは嫌だ、というところでしょう。「認められたい」という気持ちは強くあるのですが、実際に自分に強いスポットライトが集まるのは避けたいという紫式部の矛盾する心の揺れには、いわゆる「陰キャ」独特の葛藤が見られて興味深いのです。
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