『光る君へ』公卿たちの注目と“政”だった彰子の出産、そして道長派と伊周派に分かれる宮廷
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
前回の『光る君へ』「待ち望まれた日」では、一条天皇(塩野瑛久さん)の中宮・藤原彰子(見上愛さん)が敦成(あつひら)親王を出産するシーンが印象深かったですね。
現在以上に、平安時代の女性は命がけでお産に挑まねばなりませんでした。ドラマでも大勢の僧侶や陰陽師たちのご祈祷によって、怨霊や物の怪(もののけ)の類が彰子の身体から引き剥がされ、巫女の女性の身体に代わりに取り憑いて暴れる様子が克明に描かれていましたね。ずいぶんと騒がしい中での出産で驚いた読者もおられるでしょうが、当時のお産は貴人になればなるほど、あのような「総力戦」になりがちでした。高い身分の者ほど敵は増える一方ですから、大勢の味方の念力によって、邪悪な思念を跳ね返し、無事出産にこぎつけるのです。
ドラマでは『源氏物語』の作者として有名になりつつある藤式部ことまひろ(吉高由里子さん)に、道長(柄本佑さん)から彰子の初産の様子を記録するように依頼があり、それがきかっけとなり『紫式部日記』は描かれたということになっていましたね。
『紫式部日記』を含めさまざまな記録に、彰子の出産時に調伏された物の怪たちが「自分は誰それの霊である」という名乗りをあげた事実は見当たらないのですが、今は亡き一条天皇の皇后・定子(高畑充希さん)や、定子の母・高階貴子(板谷由夏さん)の霊などは確実に現れていたはずです。
彰子の初産の翌年・寛弘6年(1009年)には、藤原伊周(三浦翔平さん)の叔母・高階光子(兵藤公美さん)が彰子と敦成親王を呪詛する事件を起こしたとされ、伊周もその罪に連座して、朝廷への出仕を禁止されました。伊周本人はわずか4カ月ほどで罪を赦されたものの、その翌年(寛弘7年)には失意のうちに亡くなっています。
鎌倉時代に書かれた『古事談』という説話集によると、彰子が敦成親王を授かるまでは、昼は道長におもねっている公卿たちですが、夜はこっそり伊周のご機嫌伺いに彼の屋敷まで参上していたそうです。ところが、後に天皇に即位し、後一条天皇となられる敦成親王の誕生後は、伊周を訪問する者は絶えていなくなったそうで、伊周に残された現状打開策は呪詛くらいしかなくなっていたと考えられるかもしれません。
彰子の初産のときに現れた物の怪の名乗りから、密かに伊周とその血縁の者は道長によってマークされており、彼らになにか怪しい行動が見られれば、すぐさま罰が下るようになっていたのでしょうね。貴人のお産にまつわるすべてが「政治」に結びついていた当時らしい展開です。
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