【夏ドラマ】『海のはじまり』最終話 「明確に伝えたいこと」を先出ししてきた覚悟と、軟着陸の意味
#海のはじまり
立ち戻れば、このドラマの放送前に脚本家の方が取材でこんな風に応えていたんですね。
「明確に伝えたいことはふたつだけです。ひとつは、がん検診に行ってほしいということ。すべての人が受診できる・受診しやすい環境が整ってほしいです。もうひとつは、避妊具の避妊率は100%ではないということです。」(〈特別取材〉目黒蓮主演「海のはじまり」の脚本家・生方美久が今作で‟伝えたいこと”はふたつ/GINGER6月29日配信)
ここまで「明確に伝えたいこと」を明確に語る脚本家って珍しいなと感じたんです。これから始まるドラマが終わったとき、それが明確に伝わったかどうかジャッジされることになるわけだし、それ以前にドラマを見る人に対して予断というか、先入観を与えることにもなるわけで。
だから、だいたいみんな「見た人それぞれが、感じたままに受け取ってほしい」とか言うじゃないですか。「見る人に少しでも寄り添えたら、それでいい」とか。
この時点で、ああ生半可な覚悟で書かれた物語ではないなと感じたんです。
そういうわけで『海のはじまり』(フジテレビ系)も最終話。振り返りましょう。
■忘れられる物語
海ちゃん(泉谷星奈)がママの水季(古川琴音)を亡くしたのと同じように、幼いころに夏くん(目黒蓮)も両親の離婚でパパがいなくなってるんですよね。その後、夏くんのママ(西田尚美)はほかの男の人と結婚して、その男の人の連れ子が夏くんの弟になった。
今回、ママがこんなことを言うんです。
「夏も寂しがってたよ、唐突に『お父さんは?』って無邪気に聞いてくるの。もういないよって、言いくるめちゃった」
夏くん、そんなこと覚えてないんです。夏くんには父親の記憶がほとんどなかったし、自分が海ちゃんの父親になると決めるまで、存在すらずっと忘れていたわけです。生活の中で、実の父親についてまったく考えることがなかった。
「夏があの人のこと覚えてなかったの、私のせいかも。いないことにさせたから」
子どもの記憶なんて、そんなもんなんだということを最終回に来て言い放つわけです。海ちゃんは夏くんに甘えたり頼ったり、困らせてみたりする。それは実にいじらしい姿ではありますが、海ちゃんが何かを判断して選択した行動ではない。生き物としての本能、遺伝子に刷り込まれた生存戦略としてのいじらしさにすぎない。
だから、このドラマで描かれたのは海ちゃんにとって「忘れられる物語」でしかない。どうせ海ちゃんは忘れちゃうのに、夏くんは海ちゃんのために苦悶し、大好きだった美人の年上彼女・弥生さん(有村架純)ともお別れすることになっちゃった。
残酷な話だと思うんですよ。夏くんが実父のことを忘れて生きてこられたのは、新しいパパが夏くんにしっかりと愛情を注いで、ママと一緒に健全で穏やかな家庭を築いてきたからです。もっとシンプルにいえば、両親がそろっていて、両親の仲がよかったからです。
夏くんも前々回あたりで、海ちゃんを言いくるめようとしていました。「水季はもういないよ」って、何度も海ちゃんに伝えていた。
きっと小学生の夏くんも、ママに「お父さんはもういないよ」と言われてスネたりヘソを曲げたりしたこともあったと思うんですよね。でもママは断固たる決意でもって「いないよ」と言い続けたんでしょう。その結果が、あの夏くんの幸せステップファミリー生活であって、それはママのお手柄でもあったわけです。
夏くんは、ヘソを曲げて家を出ていった海ちゃんの行動に激しく狼狽し、津野くん(池松壮亮)の無遠慮な「おまえ」にビビり倒し、弥生さんは弥生さんで水季の遺書に足元をグラつかされて、結局、幸せステップファミリーへの第1歩を踏み出すことができなかった。
ママは夏くんに実父のことを忘れさせるくらいにステキな風景を見せ続けてきた。並外れた努力をしてきたのだと思います。
夏くんの弟である大和(木戸大聖)も同じです。幼いころに亡くなった実母の写真を部屋に飾りながら、ふだんは平気で忘れていられる。
弥生さんは弥生さんで、自分がむかし堕ろした水子を忘れないと決めたことで、自分にその子を忘れさせる時間を作ってきた。
ドラマは、それぞれにとって大切な人を「忘れさせる」ことの効果効能を説きながら、夏くんを「忘れさせることができない人」として定義したまま幕を引いています。海ちゃんは、まだ全然、一時たりとも水季のことを忘れることができない。そういう景色を、夏くんは見せることができていない。
穏やかなエンディングを装いつつ、夏くんに「まだ序の口だ、まだまだ不十分だ、まだまだまだまだ悩み抜け」と言っているのです。決して責任の追及をやめない。ただ一度、避妊に失敗しただけなのに。恐ろしい話です。
■「選択肢」の器としてのボンクラ男
このドラマは夏くんを徹底的に「後手の人」として描いてきました。自ら率先して何かを決断したり、変化させたりということができない。誰かに強く言われたり、決断しなきゃいけない場面が現れてからじゃないと、何も考えられない。別に大した理由もないのに、仕事も変えられないし、アパートも引っ越せない。全部「なり」でやってる。
そういう夏くんに次々に厳しい選択肢を与え、「どちらかを選べ、どちらかを捨てろ」と迫り続けました。
「海ちゃんも弥生さんも両方大切だから、両方守る。2人ともに、とびきりステキな景色を見せてやる。なんとかする。うるせえ津野、おまえすっこんでろ」
夏くんがそう言えたら、海ちゃんも安心して水季のことを心の引き出しに仕舞えたかもしれない。津野くんももっと素直に引き下がれたかもしれない。
夏くんを、それができない男として登場させて、なんとか軟着陸させたのは脚本家の優しさ、良心の部分だと思うし、「そんな男でもチ○ポは勃つんだ?」っていう蔑みと諦念も含んでいる。こういうとこ、言葉を選ばずにいえば「女の脚本」だなって感じたんですよね。女々しいってことじゃなくて、どうしたって「産ませる側」じゃなく「産む側」の性からの視線だよなって。
あと、そんな風に人間関係を被害とか加害とかいうニュアンスでしか考えられないから、私はずっとひとりなんだろうなとも思いました。がんばって生きていこうぜ、津野くん。おしまい。
(文=どらまっ子AKIちゃん)
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事