『光る君へ』一条天皇が寵愛し“始めた”彰子への想いと妻妾をめぐる道長との確執
#光る君へ
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
前回の『光る君へ』第35回・「中宮の涙」は、多くの時間を道長(柄本佑さん)の御嶽詣の描写に費やし、リポビタンDのCMを彷彿とさせる、危険な崖登りシーンが登場したのには驚かされました。その一方で、中宮・藤原彰子(見上愛さん)と一条天皇(塩野瑛久さん)の関係に大きな変化が見られました。藤式部ことまひろ(吉高由里子さん)から、「お心の内を帝にお伝えなされませ」とアドバイスされた彰子は、タイミングよく現れた天皇に「主上(おかみ)、お慕いしております!」と、涙ながらのど直球告白。天皇はたじろいだものの、その夜には2人は仲良くベッドイン……という流れになり、命がけの御嶽詣のご利益があった道長だけでなく、視聴者の我々もなんだか「ホッ」とさせられました。
史実の道長も御嶽詣をしましたが、それは彰子と一条天皇と対し、待望の皇子を1日でも早くもうけてほしいという相当なプレッシャーをかける行為だったようですね。今回は、そんな彰子と一条天皇の夫婦仲について、考えてみたいと思います。
藤原道長の長女の彰子は、長保元年(999年)11月、一条天皇の後宮に入内しました。数え年12歳という異例の若さです。それゆえか、ドラマの彰子が、親に捨てられた娘である『源氏物語』の登場人物・若紫に自己投影しているという描写は興味深かったですね。
道長のゴリオシによって、彰子は定子(高畑充希さん)から「中宮(天皇の正室)」の位を奪いとりました。しかし、彼女が最初の天皇の子を産めたのは、彼女が21歳のときでした。
『紫式部日記』によると、彰子の人柄は次のように描かれています。
「あかぬところなく、らうらうしく、心にくくおはしますものをあまりものづつみさせたまへる」――「彰子さまは足りていない要素などひとつもなく、上品で、奥ゆかしくいらっしゃるのだけれど、あまりに遠慮しがち」だったとか。それゆえ、初産で皇子を授かるまでにも時間がかかったとでもいいたいのでしょうか。
彰子が、年少での入内だったことに加え、彼女は一条天皇より8歳年下でした。一条天皇から見ても、自分より3歳年上の定子を寵愛してきた天皇にとっては、入内したばかりの彰子はあまりに幼く見えてしまっていたのかもしれません。ただ、一条天皇と彰子の関係が、彼女の入内から8~9年ほどもの間、形式的なものでしかなかったというドラマとは明確に異なるのが『栄花物語』の記述なのです。
道長とその一族の躍進を描いた『栄花物語』という歴史物語においては、一条天皇は当初から彰子に強い関心を示していたとされています。『栄花物語』は12世紀前半、つまり平安時代後期くらいに成立した作品であろうと考えられ、内容にはフィクションも多く含まれてはいるのでしょうが、同書によると、一条天皇は彰子をしきりに寝所にお召しになったし、「昼間などに大殿籠(おおとのごも)り」することさえあったそうです(『栄花物語』、巻8)。「大殿籠り」とは、古典の授業では「就寝」だと習いますが、ベッドインの時にも使います。
かつてドラマでも、昼間から天皇が定子の局にやってきて、愛し合う姿が何度も描かれていましたが、それと同じようなことが彰子と一条天皇の間にもあったというのが『栄花物語』です。
ただ、基本的には宮中・清涼殿の北側に設けられた「夜御殿(よるのおとど)」と呼ばれる天皇の寝室に、夜のお召しを受けた女御たちは自分の居室からおうかがいするのが通例でした。現代でいえば天皇の秘書にあたる「蔵人」、もしくは「内侍」と呼ばれる女官が、「今宵、主上からお召しがあります」などと女御たちに伝えたと考えられています。
どういうふうに一条天皇と彰子の関係が深まっていったのかは、彰子が天皇の最初のお子を授かったのが、入内から9年過ぎた後の寛弘5年(1008年)、彼女が21歳になったときの話だということ以外、確実にわかることはほとんどありません。
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