『光る君へ』シングルマザーで年長者のまひろ(吉高由里子)を疎む女房たちと『源氏物語』を巡る一条天皇との“対決”
#光る君へ
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
前回第32回の『光る君へ』「誰がために書く」ですが、まひろ(吉高由里子さん)が書いた物語に一条天皇(塩野瑛久さん)が興味を示し、作者である彼女も中宮・彰子(見上愛さん)の女房となって、御所にお仕えする……という急展開でした。
まひろの初出仕の場面では、ほとんど画面に映ることもなかった彰子の女房たちがズラッと廊下に並び、驚かされました。彼女たちが険しい眼差しで「新入り」を品定めしている様子からは、ドラマのまひろも、史実の紫式部同様に人間関係に悩まされ、すぐさま自邸に舞い戻ることになりそうと感じさせられました。
ドラマの予告では、まひろの父親が藤原為時であることに由来するのであろう「藤式部(とうしきぶ)」という女房名で彼女のことは呼ぶ、とベテラン女房が宣言していましたが、史実でも紫式部の女房名は当初、藤式部でした。
彼女が書いた『源氏物語』の登場人物に、当時、高貴な色だとされていた紫色に関係する名前(というか、『源氏物語』の読者が勝手につけた呼び名も多いのですが……)を持つ女性キャラが目立つことから、その作者までいつしか「紫式部」と呼ばれるようになったようです。
また、ドラマの彰子の女房たちは装束こそ華やかでしたが、今の世で言えば、雰囲気の悪い給湯室の光景というか、怖そうな「御局(おつぼね)さま」ばかりが目立ったような気がします。史実では、道長(柄本佑さん)と倫子(黒木華さん)の方針で、いわゆる良家のお嬢様たちを「顔面採用」することが多く、「我こそは」という姫君が多かったようですね。
そういう彰子の「初期メンバー」の女房たちからは当時、すでに30代だった紫式部というシングルマザーの年長者は敬遠されました。詳しくは拙著『こじらせ文学史』(ABCアーク)をお読みいただければ……とは思いますが、ドラマのまひろとは異なり、史実の紫式部は30代になるまでまともな職歴もなく、社交性までない人物だったため、華やかな若い女性たちに混じるとフリーズしてしまい、その姿が「私たちが馬鹿だと思って何もしゃべらないのだわ」と、他の女房たちの怒りを招いたようです。
史実における紫式部初出仕の時期には諸説あるものの、寛弘2年(1005年)12月末だったのではないかと考えられています。宮中でもっとも忙しい正月の行事は乗り切りましたが、その後の紫式部は彰子の許可も得ずに宿下がりして、職場からの出仕要請を無視し、自邸に引きこもって執筆に勤しんだようです。次の宮中への出仕はなんと秋になってからでした。
なかなかの職務怠慢ぶりですが、それでもクビにならなかったのは、紫式部を登用した道長と彼女の間に、『源氏物語』の執筆を最重視し、リモートワークでも可、という契約事項が内々に定まっていたからなのでしょうね。
そうそう、最近のドラマ本編では、まひろが執筆する姿がよく映るようになりましたが、あんな「かな書道」をする時のような、ゆったり優雅な筆運びで、次から次へと湧いてくるアイデアを余さず書き留めることなどできないだろう……と、物書きのハシクレである筆者には違和感が強いのです。
平安時代中期くらいの筆記用具はかなり高価で、特に紙は「わら半紙」程度の大きさでも現在なら1枚1000円~数千円程度はした超高級品でした。いくら左大臣・道長がスポンサーになってくれたとはいえ、ああいう越前の和紙に、丁寧に書いていくのは清書の段階からだったはずです。
平安時代末の歌人・藤原定家は、古典文学の研究者としても知られましたが、古典を筆写する際、定家様(ていかよう、つまりは「定家スタイル」という意味)と呼ばれることになる「自家製フォント」を使ったことでも有名です。定家様は一見、ただの「悪筆(あくひつ)」なのですが、早く書けるし、読み間違いも少ないため、実用性が高いのでした。
『源氏物語』は、まさに藤原定家と関係者たちによる写本=「青表紙本(あおびょうしぼん)」と呼ばれる本を中心に、何種類かの写本が現存しているだけで、原本と呼ぶべきものは紛失してしまったのですが、清書前の紫式部も、定家以上に想像の赴くまま、イマジネーションがほとばしるがままに筆を走らせていたのではないでしょうか。
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