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日刊サイゾー トップ > エンタメ > ドラマ  > 『新宿野戦病院』挑む「コロナ禍」の総括

『新宿野戦病院』第9話 宮藤官九郎が挑む「コロナ禍」の総括、『水ダウ』悪ふざけの裏で

小池栄子

 思い出したのは10代後半のころ、初めて新宿歌舞伎町に来たとき「映画みたいだ」と感じたのをよく覚えているんです。もう何十年も前だけど、そこは丸っきりテレビの中の世界で、映画みたいだと感じたのは映画館のない田舎の町に育ったから映画もテレビの画面で見るものだったのだけれど、とにかく「ああ、映画みたいだ」と思ったんです。

 数年前、新型コロナウイルスが流行しだしたころ、ニュースで見た映像に「映画みたいだ」と感じたことがありました。人っ子ひとりいない真昼間、空っぽの新宿・歌舞伎町一番街。上京して何年かの間は日常的に訪れていた歌舞伎町、やっぱり何か人が怖くて、けっこういつも伏し目がちで歩いていたあの街に、誰もいない。これはすごく、非日常が始まった、と感じたものです。

 今でも新型コロナウイルスの後遺症に苦しんでいる人はたくさんいるというし、まだまだ感染が収まったと言える状況ではないという話も聞きます。それでも私たちはもうコロナなんて終わったかのように普通に生活しているし、外食もするし、『水曜日のダウンタウン』(TBS系)ではテレビの収録現場で盛んに行われていたコロナ対策を茶化すような企画が放送されたりもしている。

 その『水ダウ』の真裏で放送されたドラマ『新宿野戦病院』(フジテレビ系)第9話は、いきなりコロナ禍の総括へと舵を切ってきました。びっくりした。

 振り返りましょう。

■コロナ前夜、「密」の話だった

 当然、第9話が始まったときにはこのドラマがコロナの話をするなんて想像もしていなくて、今回も明るく楽しく、そこそこにヤバい歌舞伎町のエピソードが来るんだろうなと思ってたんです。

 だから、すごく薄い回だなという印象を抱きながら見ていたんですね。メインになったカスハラママの背景はそれなりに練られていたし、定番のおち〇ぽトラブルの患者も運ばれてきたりしたけど、なんかゆるい。会話劇としての楽しさしかない。言いたいことが何も伝わってこない。

 そんな消化不良のままお話は終わっていき、ずっとこのドラマの語り部だった舞ちゃん(橋本愛)のナレーションが流れます。

「思えば私たちが、こんな風に密に関わりあったのは、この日が最後だったかもしれません」

 ああ、と思ったんだよな。「密」って漢字、そういえば何度も見たよな、つい最近まで、あちこちで。「3密回避」してたよな、国民全員で。

 で、「2025」のテロップ。ここからは未来の話。そうきたかー、うへえ。

■社会派としての宮藤官九郎

 よくクドカンの評価として、「コメディの中に社会的なテーマを云々」というものをよく見かけます。特に大評判だった前クールの『不適切にもほどがある!』(TBS系)なんか、個人的には全然おもしろくなかったけど、そういうクドカンのレッテルを前提に評価されていたように感じていました。

 だから今回の『新宿野戦病院』の、ただワチャワチャとおもしろくて、それでいて社会的テーマより個人の事情に切り込んで包み込んでいく作風を歓迎していた部分があるんです。どんな時代、どんな状況にあっても、「みんなそれぞれ事情があるんだ」という個人的な問題への視線と解像度こそクドカン脚本の魅力だと思っていて、けっこう原点回帰している印象があったんです。だから、楽しんで見ていたんですね。

 だからといって、このドラマがどうやらコロナ禍の総括ということをやろうとしていることがわかった今回、がっかりしたわけではありません。この感じから社会的なテーマに持っていく、というか、社会的なテーマにこの感じからアプローチしていくときに、今のクドカンがどんなドラマを書くのかというのは、クドカンが今の自分の脚本家としての立ち位置をどう見ていて、社会のどこに置きたいと考えているのかを明らかにするものになる気がするんです。

 ここまでもおもしろかったけど、がぜん楽しみになりました『新宿野戦病院』。刮目しちゃいますね。

(文=どらまっ子AKIちゃん)

どらまっ子AKIちゃん

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最終更新:2024/08/30 10:52
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