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文春が松本人志問題に執着するのは雑誌が売れるから? それとも……

ダウンタウンの松本人志に関する一連の報道に、昨今は違和感を覚える声が少なくない。第一報から半年以上が経ち、報道の是非を問う戦いは法廷に持ち込まれたというのに、「週刊文春」は、松本サイドへの批判記事を続けている。その理由は、売れるから? 読者が望むから? 社会的意義があるから? 出版業界事情にも詳しく、SNS上でこの問題に積極的に意見を述べ続ける、作家の沖田臥竜氏が考察する。

松本問題を取り上げてもさほど売れない

 ファンもアンチもすまぬ。事実だからこういう表現をうっかり使ってしまう正直者の私を許してあげてほしい。無能なコメンテーターも含めて勘違いをしている人が多いことが、「週刊文春」の報道に端を発する松本人志問題の重要な点である。それは当の文春編集部が一番理解していることだろう。松本人志問題を報じることで、文春だけが私腹を肥やしていると誤解されているが、それは間違いである。

 文春が、初めて松本人志問題を報じた年末の合併号以外、実は同誌は同問題を取り上げてもさほど売れていない。曲がりなりにも、私も大手週刊誌2誌で仕事させてもらっているので、文春を含めて週刊誌の売れ行きくらいは把握しているが、松本人志問題が文春の部数に大きく貢献していないのは明らかだ。それなのに、文春はひたすら松本人志問題を報じ続けている。

 それはなぜか。文春が自ら作り上げてしまった体質や姿勢によるものだろう。書いた相手が歯向かってきたら、降伏するまで徹底的に叩きのめす――意固地なスタンスが、執拗な報道をもたらしてしまっているのだ。

 ただ、それを作りあげてしまったのは、何も文春のエゴやプライドだけではない。あくまで読者あっての週刊誌だ。有名人を狙い撃ちにした報道を、「文春砲」などと騒ぎ立て、それを望んでしまった世論にも問題があったはずだ。有名人のスキャンダルにより強い刺激を求めてしまい、結果、それに応じる形で、次第に報道がエスカレートしていってしまったのだ。

 もちろん私はそれを完全否定しているわけではない。週刊誌の苦労だって知っているし、現場の人間においては、それが仕事なのだ。全てに理解されなくても、それを仕事にしている以上、相手を傷つけるスクープだって突き刺さなくてはならない。だが、それはあくまで生産性や公益性、真実性などがあってこそのものでなくてはならないのではないか。

 ネタ的に売れておらず、法務案件となり係争中の松本人志問題を報じ続けることに、社会的意義が本当にあるのだろうか。芸能人といえども、あくまで人間である。メディアがひとりの人間を社会的に抹殺しようとする報じ方は、私は間違っていると思っている。

 松本人志氏を告発したA子さんの主張がすべて正しいのかどうかは、誰にもわからない。今回のように、心の中では本当は恐怖を感じていたという趣旨の発言になれば、なおさら、他人にはわかる領域ではない。だからこそ、第三者はそうした主張に慎重に耳を傾けなければいけない。

 しかし文春は、そのA子さんの証言に絶対的な信頼を寄せ、記事化しているのである。たとえ雑誌が売れなくても、A子さん側の主張にまる乗りし、法廷闘争に持ち込まれた今でも、松本人志批判を誌面で続けているのだ。その姿勢は、もはや意地になっているとしか思えない。その姿勢が伝わってくるからこそ、読者の関心が薄れているのではないだろうか。

松本人志氏に貼られた加害者というレッテル

 だが、繰り返し文春が報じることで、松本人志氏に貼られた加害者というレッテルは、そう簡単に消えることはない。当事者間の主張や認識が異なる中で、被害者と加害者を決めるのは、週刊誌の論調や世論の風潮ではない。法治国家である日本では、あくまで客観的に司法が判断することだ。さもすると、一方の主張に偏りがちな週刊誌報道などでは、被害者と加害者が逆転してしまう恐れもある。だからこそ、両方の意見をしっかりと聞いて報道をするのが、週刊誌ジャーナリズムを担う記者に与えられた責務なのである。

 SNSがこれだけ普及したこの時代に、Xを再開しただけで、ここまで話題になり続ける人物が松本人志氏以外に果たしているだろうか。それは、世の中がファンもアンチも含めて、松本人志氏という刺激的な存在を求めている証だとも言えるだろう。

 私は世間に知られていないだけで、過去にスクープを随分とブチ込んできた。ただ、仕事だから、それらを仕込んだのではなかった。それ以外の理由が必ず存在した。情報提供者、スクープの対象者、どちら側の人生とも対峙するのである。生半可の覚悟ではやってこなかった。相手を一方的に貶めるようなこともせず、同時に再生への道を用意するよう心がけた。だが、いつも後に襲われるのは虚無感であった。間違っても、これは正義だのと言って、自分を誤魔化すようなことはしなかった。

 もし自分が、文春のように割り切ったスタンスを取れるなら、今すぐにでも、いくつかのスクープを撃ち込むことはできる。仕事をしている中で、このガキめ!と頭に来て、不道理ぶりを思い知らせてやりたい衝動に駆られることもある。だが、やらないだろう。仕事の幅が広がり、同じペンを振るうならば、スクープを刺しこまれ、叩かれた側で戦っていたいのだ。そして人を裏切るようなことだけは、例え自分が損をしても私はしないと決めている。

 もちろん断然に不利な戦さである。でも、自分のペンで、人が不幸になることに加担するよりも、少人数からでも、よく言ってくれた!と言われる方が、今の私には書き手冥利に尽きると思えるのだ。

 私はコンサルティングの会社も経営しているので、危機管理的な視点で判断できるのだが、今の松本人志氏のXでの投稿はうまい。できればあれをはじめからやっていれば、文春もXでの言動を記事に挿し込むことができなかっただろう。浜ちゃん人形を投稿しやがって!と批判したところで、読者の共感を得ることなんてできない。今の松本氏のXの投稿は、相手からしてみたら、料理しにくい状態になっているのだ。

 裁判を取り下げれば、松本人志氏が芸能界を引退すれば、文春サイドは満足なのだろうか。それとも今後も、松本憎しと報じ続けていくのだろうか。部数が伸びていない、つまり世間の関心は薄まる一方だというのに。

 もうよいのではないか。Xの投稿を見ても、世間には、ダウンタウンの松本人志を必要としている人が多い。それは私も同じだ。理不尽な扱いで、松本人志という天才をテレビから失ってはならない。

(文=沖田臥竜/作家)

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)、『ブラザーズ』(角川春樹事務所)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

最終更新:2024/07/30 17:44
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