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松本人志vs週刊文春―不毛なる場外乱闘は誰がために?

松本人志側と週刊文春が再び火花をちらしている。松本氏を告発したA子さんを証人として出廷させないための妨害工作が、松本氏側によって行われていたというのだ。対して、松本氏側もこれに反論。法廷外で泥沼の戦いとなっているが、これらは誰のために、なんのために行われているのか。誰も報われない争いの行方は――作家・沖田臥竜氏による定点考察は続く。

出廷妨害報道という場外戦

 プロが書いたはずの原稿なのに頭に入らないのはなぜか。ダラダラと長いからだ。または、内容がないからだ。

 「週刊文春」の記事を読むと、その多くは書き出しが上手い。この記者は小説家になったほうがよいのではないかと思うくらい上手く書けていることがある。まあ、小説家はあまり儲からない職業なので、あえて選ばないし、実際あの程度なら小説を書くことは無理なのだかな…。

 さて、「週刊文春」が久々にダウンタウン・松本人志関連の記事を取り上げ、ひと騒動起きている。松本氏を告発したA子さんを証人として出廷させないための妨害工作を、松本氏側が行っているというものだ。A子さんに探偵をつけて尾行したり、A子さんの相談相手であるX弁護士のところに、松本氏の弁護士が出向き、A子さんを証言台に立たせないよう依頼したりしていたという。

 そんなことを文春が報じると、松本氏側の弁護士はすぐに反論。すると今度は、X弁護士が実名で文春に登場し、松本氏側を批判し始めた。まさに泥沼の展開だ。

 今のところ、何が真実かわからない。だが、文春の記事を見て、A子さんを尾行していた探偵が、あまりにもすぐに文春記者に素性がバレた挙句、逆に記者に監視され、最後には記者に内情をペラペラと喋っていることに思わず笑ってしまった。だって、もうこうなるとサスペンスドラマの世界じゃないか。こんな攻防には、公益性やジャーナリズムなんてものは見当たらない。文春もこんな場外戦をダラダラと報じないでほしいものだ。

 探偵という職業を、私はそもそも胡散臭いと思っている。すまないが、それも私の主観なので許してほしい。私だったら、絶対に尾行の痕跡なんて残さないし、依頼者のことをベラベラ喋ったりしない。そもそも、その存在自体を察知されることもない。それが本来、メディアコントロールの仕事なのだ。

 文春の記事の中に、A子さんにとって不都合な記事が女性週刊誌に出ることを松本氏の弁護士が臭わせ、それを潰す代わりに証人出廷を控えるようにX弁護士に打診したという記述があった。いやいや、週刊誌の仕事をしてみればわかるが、今の世の中に記事を潰すなんて不可能だ。現場の記者は記者なりにジャーナリズムを追求しながら、汗をかいて取材しているのだ。編集部員もそうだ。それを突然、上層部から記事の見送りを押し付けられたら、黙っていられると思うだろうか。現場全体の士気にだって影響してくる。

被害者の立場が強化されても問題解決はしない

 文春は、松本氏側と和解するつもりはないのだろう。そこについて何も思わないが、一点だけ引っかかる。誰が報われるのかということだ。文春の記事によれば、A子さんは怯える日々を過ごしているという。松本人志はテレビから姿を消すことになった。今回の一連の報道で、誰かが報われたのか。

 文春も記事化することで当然、A子さんのリスクヘッジ、つまり、記事化した後のA子さんの精神状態を考えたはずだ。だからこそ、このネタが持ち込まれてから記事にするまでに、3年半の月日を要している。記事化に踏み込めば、松本氏側から訴えを起こされ、法務案件になることも織り込み済みだった。その戦いに備えて、万全の準備をしていた。そして、泥沼の戦いが始まった。

 一般論として、今の世の中、被害者が突然、本人が望む、望まないにかかわらず、強者になってしまうことが多々あると思う。週刊誌などにネタを持ち込み、被害者という立場を前面に押し出せば、その主張が事実としてまかり通ってしまう側面があるのも事実だ。社会を味方につければ、被害者の立場は強化される。だがそれが、本質的な問題解決になるとは限らない。

 だからといって、泣き寝入りしろというのではない。報道する側のボーダーラインの話だ。今回のケースでいえば、松本人志氏は芸能人ではあるが、公人ではない。それに近い存在かもしれないが、公人ではないのだ。そうした場合、刑事事件になるような案件かどうかが一つのボーダーラインになるだろう。それを超えるということは、つまり、松本氏に犯罪の嫌疑があるという汚名を着せることだ。今回、文春側はA子さんの証言のみで、松本氏を犯罪者扱いした。松本氏からしてみれば、何年も前の出来事で、しかも性的行為を強要したという意識がない中で、一夜にして犯罪者扱いされたのだ。そんなことがまかり通る社会にいることを考えると、誰だっておぞましいと思うだろう。

 今さら、文春も引き下がることはないだろうし、文春の記事を松本氏側が認めることもないだろう。裁判の長期化は必至だ。被害を訴えたA子さんも、犯罪者扱いされた松本氏の心身の平穏も当面は訪れないだろう。そんな中では、誰も報われない。

 ならば、手仕舞いさせることが、もはや有効な解決手段ではないか。私個人は、松本氏に早く復帰してほしいと思っているが、それによって巻き起こる論争も不毛だと思っている。キリがないからだ。

そもそのゴールはなんのか?

 公人ではない松本氏を週刊誌が社会的に抹殺するならば、それを書いた記者たちにもそれなりの覚悟がいるのではないか。文春側があくまで集団で対応しており、何があっても記者個人では責任を取るつもりがないという心理だとしたら、記事を書くことなど他人事と同じだ。もし、文春が「もしも松本人志の言い分が裁判で認められたら、我々は全員筆を折る」と言うならば、私は書き手としての「覚悟」を見るが、それはやらないだろう。やる必要もない。自分たちの面子を重んじるよりも、この騒動を早く終結させるほうが、それぞれの負担が解消されるのではないか。

 そもそもゴールは何だろうか。松本氏のゴールは汚名を晴らすことではっきりしている。だが、一方のゴールはどこにあるのだろうか。

 松本氏にはすでに実質的に社会的制裁が下り、A子さんの訴えは、芸能人たちのモラルやコンプライアンスを高めることにつながっただろう。すでに大きな役割を果たしている。裁判で白黒つけることが、次の被害者を生まないためになるということも言われるが、その大きな負担をA子さん個人がこれ以上負う必要はない。文春なんて、A子さんの苦しみをよそに「雑誌が完売してうれしい」などというコメントを発表するデリカシーのなさを発揮してきた。しょせん他人は他人、自分は自分である。

 私は、嫌なことがあっても、我慢することもストレスをためることもできる。ただ、自分で卑怯だと思うことはカッコ悪いのでやらない。間違っても卑怯な行為や裏切りを正当化させるような生き方をしない。それが誰かに理解されようとされまいと関係ない。私の生き方の問題としての話だ。

 文春と松本氏サイドがいくら火花を散らしあっても、誰も報われない。ならば、終結させることが最優先されるべきではないか。そうでなければ不毛な戦いが長引くだけだし、果ては週刊誌全体の衰退に繋がっていくだろう。事実、今回の出廷妨害騒動を受けても、文春の部数は伸びていないと聞く。

 スクープとゴシップは全く違うし、スクープとして刺し込んだことで、一人の人間を社会から抹殺してしまうことは、書き手の領分を超えてしまっている。

(文=沖田臥竜/作家)

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)、『ブラザーズ』(角川春樹事務所)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

最終更新:2024/07/21 10:10
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