松本人志問題「最新報道の疑問点」と「マスメディアの臨界点」
#松本人志 #週刊文春 #沖田臥竜
「週刊文春」による松本人志の性加害疑惑報道は、いまだ終息の兆しを見せていない。先週は新たに、松本に被害を受けたと告発したA子さんを、公判に出廷させまいと松本サイドの弁護士が妨害工作をしていると、文春が報じたのだ。だが、この報道内容と文春側の行動には、いくつかの疑問点も存在する。それを作家の沖田臥竜氏は以下のように投げかけるが……これは、松本問題にとどまらず、マスメディアに突きつけられている現実とは不可分のようだ。
メディアは司法ではなく、一個人を断罪する権利はない
メディア(ここでは、主にマスメディアを指す)には、越えてはならない一線が存在する。それを超えれば、これまでメディアが作り上げてきた、公益性を帯びた社会的存在という地位を揺るがしかねない。
もしも一線を超えて、悪意をもって人を意図的に陥れることにメディアが加担してしまった場合、取り返しがつくだろうか。「知らなかった」ですまされるだろうか。だからこそ、記事を作る時には、丁寧かつ慎重に取材を進めなければならないのだ。
その過程には、取材先やその周辺から「たかだか週刊誌が!」「たかだかネット記事が!」と罵られることもあるだろう。しかし、だからこそ、片側の主張だけで善悪を決めて、偏った記事を作ってはならないのだ。誰に理解されなくとも、世の中に伝えなければならないニュースがあれば、ペンに自らの矜持を宿し、ジャーナリズムを追及していかなくてはならないのである。
だが、メディアはあくまで司法ではない。権力を持つ者の監視は大事な役目だが、ペンの力によって、一個人を断罪するような役目までは担っていない。そもそもメディアが背負う公益性には、どちらか一方に偏って報じることで、もう一方を社会から抹殺するような権利は有していない。
罪を犯した者に法律に則った制裁を加えるのは、司法の役目である。メディアに求められることとは、あくまで客観的に物事の真実に迫ろうという公正な立ち位置で、取材で掘り起こされた事実を吟味し、社会的利益になるという信念のもとに報じることである。それが、メディアに求められてきた使命ではないだろうか。
だが、昨今、明らかに行き過ぎで、バランスを欠いているにもかかわらず、「スクープ」などといって、事実か否かもわからぬ状況の中で、書かれた側の人生を実質的に崩壊させかねないような記事が散見される。はっきり言う。そんなことをしている「週刊文春」も落ちたものである。それは売上部数を見ても歴然で、「紙(週刊誌や新聞)は売れない」というのは、それまで積み重ねてきた媒体側の怠慢や読者側の不信感の表れでしかない。
明らかにおかしさを感じる文春の判断
7月10日、松本人志氏の代理人を務める八重洲総合法律事務所の田代政弘氏ほか2人の弁護人と連名で、「『週刊文春電子版』掲載記事について」と題し、厳しい抗議文を掲載している。
これは、同日に週刊文春電子版で配信された、「【証拠写真多数】松本人志「A子さん出廷妨害工作」彼女を尾行する黒ずくめの男たちを追うと…」と題された記事を対象にしたものだ。松本サイドは、文春が昨年末から執拗に報じてきた、松本氏の性加害疑惑について、真っ向から否定してみせている。この件については、私もそうだし、読者にだって、もちろん事実はわからない。
だが、今回の文春の記事にあった通り、A子さんを法廷に出廷させないための工作を松本サイドの弁護士が行っているとすれば、論じるまでもなく大問題だ。
しかし、それが事実だったか否かは慎重に判断しなければならない。実際に、文春の記事を読んでみると、首を傾げたくなったのは私だけではないだろう。
八重洲総合法律事務所から出された反論文にも記載されているが、A子さんが興信所に尾行されていた件について、その発端となった匿名の手紙2通が田代弁護士宛に届けられている。それはA子さんの動向を詳細に記した内容の手紙だ。あまりにも出来すぎていないか。この手紙には、A子さんがいつ誰に会うかなどの動向が詳しく書かれている。詳細は、八重洲総合法律事務所が公開した文書で確認できる。
https://www.yaesulaw.jp/wp/wp-content/uploads/2024/07/infor_20240710.pdf
理由はどうであれ、訴えを起こした裁判相手は、芸能界の頂点に君臨するダウンタウンの松本人志氏だ。その松本氏を相手に、文春がA子さんの証言を記事化に踏み込み、少なくとも現時点において、松本氏を芸能活動休止へと追い込んだのだ。対する松本氏サイドは、文春の記事で名誉を毀損されたとして、発行元の文芸春秋などを相手に損害賠償などを起こしている。
真相がなにかという話をしたいのではない。その渦中にいるA子さんの動向をそこまで詳細に知り、第三者に知らしめる人物がなぜ存在しているのか。それは誰なのか。そこに言及したいのだ。そして、A子さんからの依頼で文春の記者が現場に出向き、探偵が尾行しているところをピンポイントで捕捉したというのである。文春の記者は、なぜそんなことまでできたのか。
それにしてもだ。身の危険を感じているA子さんから、身辺を確認してほしいという依頼が文春側にあったのだとしたら、文春編集部はその時、記者を現地に派遣するだけではなく、当局と相談し、A子さんの身を守るべく連携を取るべきではなかったか。
Aさんを尾行していたのが探偵だったから最悪の事態はなかったものの、もし暴漢だったらどうするつもりだったのだ。身の危険をA子さんは感じていると言っているのだ。文春の記事たちは、“プロ”たちの武力にも対応できる、武闘派で敏腕の精鋭揃いとでも言うのか。
一般的な解釈ならば、普通は警察に通報なり、相談なりをするはずだ。取材協力者であり、報道の結果、大きな注目を浴びたA子さんを守るのは、編集部の務めだろう。万が一に備えて、警察だって連携を取りたいと考えるだろう。呑気に記者だけを現地に派遣させるようなことを、私だったらしないだろう。
ましてや現地に行ったら、A子さんの身辺には実際に不審な人物らがいたのだ。記者として緊張感が漂う場面だと思うのだが、その状況を離れた場所で確認しながら、写真を撮っている場合か。もしA子さんの身になんらかのアクシデントが生じたらどうするのだ。
もしかして記者は、不審者は探偵であり、危害を加えることは絶対にないと、その風体だけで一瞬にして見破ったのか。それならば大したものである。だが、それを客観的に見た時に「さすが文春だ!」とはならない。「それはおかしくないか……」となるのが一般的ではないか。
今回は、発行元の文藝春秋が訴えられているのだ。是が非でも松本人志氏との裁判は、負けられないはずだ。本当に証人の出廷を妨害されているのならば、それこそ裁判所で証言するべきではないのか。その前に、戦術として手の内を晒してどうするのだ。
それらを含めて、「おかしい」と違和感を感じる点が複数あるのだ。仮にだ。手紙を出した匿名の人物が特定された場合、その違和感のいくつかは解消されるのではないか。文春編集部にとっての、A子さんを脅かす内容を書いた、匿名の手紙の主はえらく不届きなヤツだ。手紙を見ればわかるが、A子さんの動向を詳細に書いているだけでなく、A子さんにおかしな濡れ衣まで着せようとしているのである。
繰り返すが、文春の立場からしてみれば、当局に相談なり、捜査の依頼なりを申し出て当然だろう。匿名の送り主の筆跡も公開されたのだ。それくらいの責任や義務は存在するはずである。
A子さんの尾行のスタートは、匿名の手紙から始まっているのだ。報道機関として、そこを問題視しないのは、あまりにも杜撰ではないか。
SNSの発展で、特に若年層のオールドメディア離れは顕著だ。週刊誌は軒並み部数を減らし生き残りをかけた戦いが始まっている。それはネット媒体もテレビも同様だ。だからこそ、マスメディアが背負うジャーナリズムを真摯に追求していかなくてはならないはずではないのか。
真実がわからない、真相がはっきりしない中で、間違った方向に進み、人の人生を狂わすようなことをするのが、メディアが担う役目ではないはずだ。
(文=沖田臥竜/作家)
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