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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 『光る君へ』伊周の命運、定子と清少納言の今後
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義21

『光る君へ』伊周・三浦翔平の命運、そして定子と清少納言の今後と『枕草子』“本当の”解釈

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』伊周・三浦翔平の命運、そして定子と清少納言の今後と『枕草子』本当の解釈の画像1
まひろを演じる吉高由里子

『光る君へ』、前回(第21回)の放送では、まひろ(吉高由里子さん)と父・為時(岸谷五朗さん)が越前国に旅立っていきましたが、それ以上に「中関白家」が悲惨なことになっていたのが印象的でした。前回のコラムでは「伊周(三浦翔平さん)も逃げ惑うのに疲れ、検非違使(現代の警察に相当)のもとに出頭し、太宰府(現在の福岡県)に流されることになりました」とだけ記し、伊周の都落ちについては短くまとめましたが、本当はかなりの愁嘆場がありました。今回はそのあたりと、『枕草子』についてお話しましょう。

 ドラマでは「亡き父に誓ったのだ。私が我が家を守ると」と抵抗する伊周に向け、母親の高階貴子(板谷由夏さん)が「もうよい。母も共に参るゆえ」と諦めさせ、太宰府まで手車に同乗していたところ検非違使や、その長官である藤原実資(秋山竜次さん)、そして道長(柄本佑さん)たちが現れ、「母の同行はまかりならぬ」と息子と母親を引き離す場面が描かれました。

 道長の日記『御堂関白記』には、さすがに自分が追い落とした親戚の悲嘆を描くのは気が進まなかったのか、この部分の記述が存在していません。しかし、実資の日記『小右記』には細かく伊周や貴子の動向が記されています。それによると、なかなか京都から太宰府に向かおうとせず、逃げ惑うことを繰り返したとあります。伊周は自身や母親の病を下向できない理由として振りかざしていました。当時は「出家すると病気が治る」と考えられ、ドラマの伊周は出家したフリでしたが、史実の伊周は本当に出家したようです。つまり、それほど自分は「本当に重病だ」と主張していたのです。

 一条天皇(塩野瑛久さん)の中宮(正室)である定子(高畑充希さん)の私邸・二条北宮(『枕草子』では「二条の宮」)は、当時では一種の治外法権が確立された場所でした。しかしその「ルール」を、花山院(本郷奏多さん)を襲撃したことなどの罪に問われ、地方への降格人事という名目での流罪を命じられた伊周・隆家(竜星涼さん)兄弟が悪用し、検非違使の手を逃れるため、定子の二条北宮に潜伏したことは、これまでもお話したとおりです。

 比較的早期に諦め、地方に下向していった隆家に比べ、伊周は妹・定子の夫、つまり「身内」にあたる天皇に同情されようと、粘りに粘った挙げ句、よけいに天皇や世間から軽蔑されてしまったのでした。先述のとおり、重病を理由に太宰府へは下向できないと言い出した伊周ですが、自分の母・貴子も病気だから、共に下向したいと一条天皇に申し出た記録が実資の日記『小右記』には本当に見られます(長徳2年(996年)5月4日条)。

 その翌日の5月5日、伊周が母親連れで二条北宮を出ていったと思ったら、現在の京都市西京区の大原野石作町あたりの山中にあったと考えられる「石作寺(いしづくりでら)」で彼らが発見され、そこに検非違使たちが現れて一条天皇による「母氏不可」――つまり高階貴子を太宰府まで連れて行くことは許さないという勅命を伝え、母子を引き離したのでした。

 ドラマの貴子は病ではなさそうですが、同時代の記録で見る貴子は重い病だったようです。伊周は母親のことが本当に気がかりだったようですね。一条天皇もさすがに慈悲をかけ、伊周が病気を理由に任国・太宰府ではなく、播磨国(現在の兵庫県西南部)に逗留することを許しています。前回も少しお話しましたが、本来なら「出雲権守」として任国・出雲(現在の島根県)に下向させたはずの伊周の弟・隆家についても、但馬国(現在の兵庫県北部)に滞在することを認めましたが、こうした背景があったがゆえの話でした。

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