『光る君へ』伊周・隆家兄弟の“本当の処遇”と定子・高畑充希が髪を落とした“本当の理由”
#光る君へ
藤原定子が髪を落とした“本当の理由”
ドラマの壺の「モデル」としては、晩年の道長がとある陰陽師の手で呪詛され、その式神を安倍晴明(ドラマではユースケ・サンタマリアさん)が見事に発見するという経緯が、鎌倉時代前期に成立した『宇治拾遺物語』に見られます。この書物に式神として紹介されているのは、2つの土器を重ね、その内部に「呪」と書いた黄色い紙をひねったものを入れただけの代物でした。まぁ、安倍晴明などの平安時代の陰陽師が、実際にどんな式神を使っていたかについては、完全に門外不出の秘伝で、本当のところはよくわかりませんが……。
ドラマの伊周は道長を訪ね、呪詛などはしていないと泣きながら訴えていました。また、史実でも伊周は大宰権帥への左遷人事をなかなか認めようとせず、逃げ回っていたことが知られますが、それは花山院襲撃事件はともかく、呪詛事件などは完全な冤罪であるという抵抗でもあったのでしょう。
当初は弟の隆家も兄同様、何者かによって(通説では道長によって)捏造された「罪」を否定し、一条天皇の中宮・定子(高畑充希さん)の屋敷にこもっていましたが、兄よりも早期に「罪」を認め、京都を出ています。しかし、彼は出雲権守に左遷されていたにもかかわらず、出雲(現在の島根県)には行かず、病気を理由に但馬国(現在の兵庫県北部)に滞在しつづけました。これも一種の抵抗だったと考えてよいでしょう。
結局、史実の伊周も逃げ惑うのに疲れ、検非違使のもとに出頭し、太宰府(現在の福岡県)に流されることになりました。しかし、伊周・隆家兄弟は「長徳の変」の早くも翌年、つまり長徳3年には罪を許され、京都に帰ることができました。この背景にあったのも、やはり藤原詮子の体調不良でした。史実の彼女は弟・道長がでっち上げの罪で苦しめた相手を「恩赦」することで、なんとか病からの回復を願ったらしいのです。この時、隆家や、その父・道隆の「霊」に詮子や道長が悩まされていたという記述が史料に見られ(『権記』)、非常に面白いのですが、ドラマでも描かれるかもしれませんので、これについてはまた後日……。
兄・伊周が無様に逃げ惑う中、屋敷に踏み込んできた検非違使たちを前に定子が小刀を振りかざし、喉を突く付くのかと思いきや、黒髪が束になって廊下に落ちたシーンについても最後に補足しておきますね。
史実でも定子は、不甲斐ない兄たち二人を匿ってしまった自分の罪の責任を取るべく、そして兄たちの罪を軽くしてもらえるよう、ドラマで描かれたように髪の毛を一部切り取って出家の意思を示したそうです(『小右記』)。
しかし、事実上は出家した身にもかかわらず、定子は一条天皇の後宮に戻り、猛批判を受ける中で天皇からふたたび寵愛され、複数の御子を設けることになりました。花山院のケースもそうでしたが、出家者の色恋は当時のルールでは大スキャンダルでしたから、そのあたりに道長が付け込み、愛娘・彰子を入内させ、定子から一条天皇の寵愛を奪いとる余地があったのでしょうね。盛り上がってきた『光る君へ』、今後が楽しみです。
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