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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 『光る君へ』道兼の死と道長の躍進
歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義18

『光る君へ』道長・柄本佑の“役職と躍進”、そして道兼・玉置玲央は“気配り”の人

なぜ道兼は和歌へ傾倒したのか?

『光る君へ』道長・柄本佑の役職と躍進、そして道兼・玉置玲央は気配りの人の画像2
藤原詮子を演じる吉田羊

 そういう道長の出世栄達の足がかりになったのが、一条天皇時代に伊周より上位のポジションを得たという事実だったのです。ドラマでは一条天皇の寝所に(道長の姉でもある)詮子が母親の特権で押し入り、涙ながらに切々と伊周ではなく道長を関白にするように説いて聞かせていました。吉田羊さんの熱演が光ったシーンでしたが、これは『大鏡』にも実際に見られる場面です。

『大鏡』でも詮子はドラマ同様、涙ながらの大演説をしたとあり、ついに天皇を説き伏せることに成功すると、自ら天皇の寝室の扉を押し開いて外に出て、側でドキドキしながら控えていた道長に向かって、赤らんだ頬には涙の筋を残しながらも「御口はこころよく笑ませ給ひ」――口元だけは気分よく、にっこりして見せたとあります。詮子は本当に癖と押しの強い女性でした。

 道長にとって、詮子は大の恩人ですから、彼女に先立たれるとその葬儀を取り仕切るだけでなく、遺骨を首にかけたとも『大鏡』にはありますね。史実ではお互いに野心家だった姉と弟は本当に仲が良かったようです。

 今回は政治というか、平安時代の宮中の濃い人間ドラマについてお話してきましたが、文化的な方面にも触れておきましょう。前回は藤原道兼が急逝しましたが、彼が晩年には和歌に傾倒していたという次回予告後の「紀行」で触れられ、それが気になったという読者も多いでしょう。

 ドラマではあまり彼の風流な側面については触れられてきませんでしたが、生前の彼は「粟田殿」とも呼ばれ、実際に京都・東山地区の粟田山に山荘(通称・粟田山荘)を作らせ、そこで和歌の会を頻繁に開いていたことが知られています。道兼の和歌は、一条天皇の治世に編まれた勅撰和歌集『拾遺和歌集』、さらに鎌倉時代に編まれた『続古今和歌集』に一首ずつ選ばれているだけなのですが……。

 それでも注目したいのは、花山天皇(ドラマでは本郷奏多さん)を騙して出家させてしまった張本人の道兼が、花山天皇にゆかりの深い歌人たちとはその後も交流を続け、自身の粟田山荘にも招待していたという事実です(徳植俊之氏の論文『藤原道兼とその周辺――『拾遺和歌集』前夜における歌人の動静をめぐって』より)。

 ドラマでも故・道隆(井浦新さん)が開催した「漢詩の会」が描かれていましたが、平安時代において、政治と詩歌の会などの芸術イベントには密接な関係がありました。しかし同時に、政治的立場を超えて芸術を通じ親睦を深める機会も、そうした場にはあったわけですね。

 史実の道兼に紫式部(ドラマでは吉高由里子さん)の母親を殺したという「罪」はないわけですが、藤原兼家(ドラマでは段田安則さん)の息子として、一族のため、花山天皇を騙して退位させるという汚れ仕事を引き受けたのは事実です。それなのに自分を後継者(関白)に選ばなかった父・兼家に道兼が激怒していたという話は『大鏡』にも見られます。しかし史実の道兼は、そうした『大鏡』などの歴史物語や、ドラマに描かれていた以上に「気配りの人」であって、花山院退位事件で不遇を見た人々の恨みをなんとか解消しようと努めていたのでしょうか。それが道兼の和歌への傾倒の内実だったのかもしれません。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2024/06/12 19:02
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