『ブルーモーメント』第2話 「救いに行くべきではなかった命がある」というメッセージ
#ブルーモーメント
1日放送の『ブルーモーメント』(フジテレビ系)も第2話。いやぁ、おもしれえなこれ。振り返りましょう。
■1話2話ぶち抜きでドデカエピソード
豊富な知識と天才的な計算能力で気象状況を読み切り、人の命を救う。気象研究家のハルカン(山下智久)をチームリーダーとした特別災害対策本部「SDM」の活躍を描いた本作。前回の第1話では「気象研究家が救助を指示する」ってどんな状況やねんという問いに、明確な回答を示してきました。
猛吹雪の雪山を舞台に、ハルカンが降雪量や雪崩ポイントを正確に弾き出して現場のレスキュー隊を誘導するという、主に方法論についてのお話でした。このドラマは、こうやって災害に立ち向かいますという宣言を第1話できっちりやっていたわけです。いわば、最初にドラマにおけるルールを定めておくという作業です。「天才的」って言葉で表しちゃえば簡単ですけど、その「天才」がどれくらい万能なのか、どこに限界があって、何が無理なのか。
例えば第1話では、遭難者たちは雪崩が起きたときに下に逃げず、横に逃げていました。そして木の根元にあるくぼみに身を隠し、両手で口の周りに空間を作って呼吸を確保していた。彼らがそうしていなければ、ハルカンがいくら天才的な能力を発揮しても死んでいた。ハルカンの救助が成功したのは、遭難者自身が雪崩に遭遇したときの対処を知っていたからだった。ここに、ハルカンの能力の「限界」が表現されていました。
しかし、遭難者たちにその雪崩サバイブのノウハウを刷り込んでいたのも、またハルカンが作って全国津々浦々に配布しまくっていた防災パンフでした。天才ハルカンは現場だけでその能力を発揮したわけではなく、ヘラヘラとテレビに出て売名行為をしていたときからすでに、ずっと戦っていたということが示される。
そしてドラマは、そんなハルカンを「あなたは命を救うことにとりつかれている」と糾弾します。聞き慣れない表現だし、別にいいじゃんと思ったんですよね。第1話を見てて、結果、救えたわけだし、命を救う仕事の人が命を救うことにとりつかれているなんて、超いいじゃんと思ったんです。
第1話の救助劇では、取りこぼしがありました。吹雪の中、崖下に2人が転落。この人たちの救助を通して、第2話では「あなたは命を救うことにとりつかれている」という言葉の意味が語られました。この2話を前後編とすれば、前編では方法論を語って、後編では哲学を語っている。前編でルール説明が済んでいるので、私たちも哲学を受け入れる準備ができている。
■遭難者と救助者を身内にするあざとさ
崖下に転落したのは、遭難者とレスキュー隊長。2人は義理の親子関係で、父である隊長は遭難者のことを娘の旦那としては認めていない。
この身内設定、前回を見た限りでは、あざといなと感じていたんです。身内にすることで人物たちの感情の揺れを増幅できるし、泣いたり叫んだりさせやすいし、そういうドラマを盛り上げる要素としての身内だと思っていた。
しかしこの設定は、今回のテーマを語るためのガチガチの必然でした。
人命救助の現場では、絶対に二重災害を起こしてはならない。場合によっては、命を見捨てなければならない。そうして生きて帰って、また次の命の救助に向かうことが彼らの仕事である。
だから「命を救うこと」だけにとりつかれているハルカンは、危うい。
結果、ハルカンが天才的な能力を発揮して2人は助かるわけですが、この作品は「救えたんだからいいじゃん」という結果論をとことん嫌悪しています。堂々と「見捨てなきゃいけなかった」「あの遭難者は、あのまま死なせなければいけなかった」と宣言します。
一方で、「なんで私だけがこんな目に遭うのよ」という自然災害における被害者の心の叫びに対しては「運が悪かったの」と超シンプル結果論を受け入れて見せる。
ハルカンや、死を覚悟して身内を救いにいったレスキュー隊長を安直にヒーロー視せず、「基本、無力です」というスタンスを維持し続けている。ハルカンも、ハイパーレスキューも、無力です。自然災害に対して、人は無力です。
その諦念が下敷きになっているからこそ、感情に振り回されてはいけないというメッセージが届く。そのメッセージを届けるために、登場人物たちに「自分のせいで人が死んだことがある」という過去を設定し、特大の感情をこめておく。特大の感情をこめておいて、その感情に振り回されないことを強いる。
結果、そこに人間が現れるわけです。ドラマなんて所詮ウソっぱちですからね。そこに人間が現れたら、もう勝ち確なんです。
ちょっと早いけど、映画化決定でしょう『ブルーモーメント』。おもしろいわ。
(文=どらまっ子AKIちゃん)
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