『君が心をくれたから』第10話 あらゆる側面から「信用できない」が押し寄せる
#君が心をくれたから
ウソを言え、自己犠牲を払え、いいから泣いてろ。そんなメッセージをビンビンに発し続けている今期の月9ドラマ『君が心をくれたから』(フジテレビ系)もラス前の第10話。いよいよ自己犠牲の天使・雨ちゃん(永野芽郁)は視覚を失うことになりました。
雨ちゃんの目が見えなくなるのは、桜祭りの行われる日の夜8時。10年来の悲願だった太陽くん(山田裕貴)の花火を見るチャンスは、このたった一度しかありません。しかも太陽くんはまだ一人前の花火師ではないので、当日に花火を上げられるかどうかわからないという状況です。
もし太陽くんの花火が審査に落ちてしまったら、一生見られないことになる。もう来年はない。五感を失うことになった雨ちゃんは来年の今ごろには花火を見られないし、その音も、火薬の匂いも、身を震わせるような風圧も、感じることはできないのです。
しかしそんな雨ちゃんに、確実に花火を見るチャンスが訪れるのでした。振り返りましょう。
■本質より体裁が大事なんだ
花火の審査って、普通に考えてその花火を打ち上げることだと思っていたんですが、やっぱりその通りでした。審査の日、太陽くんの花火は長崎の空に上がりました。審査では本番と同じ花火を上げなければ意味がないですから、町のどこからでも空を見上げれば、太陽くんの花火を見ることができる状況でした。
もし太陽くんが誰もが認めるプロの花火師だったら、事前審査で本番と同じ花火を上げることはありません。未熟だったからこそ、2人は「花火を見せたい/花火を見たい」という夢を共有することができる状況が生まれた。悩んで、回り道をしてきたことが、ここで報われることになった。そういうところに美徳を見出すことだってできるんです。でも、しないんです、このドラマは。
雨ちゃんは審査の日、自宅のソファでその結果を待っていたのでした。なんでだ。空を見ろよ。空を見ろって。
要するに桜祭りの本番じゃなきゃ意味がない。意味がないに決まってるんだよ。
本質より体裁が大事なんだよ。
ティーンに向けて、いい大人がそういうことを言っている。人の価値観はそれぞれですから闇雲に否定するわけじゃないけど、嫌な考え方です。信用できない。
■雨の日に車から出たくないんだ
だいぶ身体も弱ってきた雨ちゃんの専属運転手として健気に働く市役所職員・司さん(白洲迅)は、今日も今日とて雨ちゃんをママが入院している病院に送り迎えしています。ご自慢のフォルクスワーゲンは快調そのもの。花火大会が始まる18時30分には会場に送り届ける予定です。
しかし帰路、ゲリラ豪雨に交通事故が重なり、市内までの道は大渋滞。このままでは花火に間に合いません。どうしてもあきらめきれない雨ちゃんは、車を降りて「走る」と言い出しました。もう階段もまともに下りられないくらい弱っていて、外はどしゃ降りですが、残り5kmを「走る」と。
司さんは以前、こんなことを言っていました。
「司(つかさ)という名前には傘(かさ)が入ってるんだ。僕は雨ちゃんの傘になりたいんだ」
今こそ、傘になるときです。昔はサッカー選手を目指していた司さんですから、体力も十分です。雨ちゃんを背負って走れ、司!
と思ったんですが、司さんは車から降りません。雨の降りしきる歩道に降り立ってヨロヨロと走り出した雨ちゃんの背中をエアコンの効いた車内から見送ると、知り合いの女に電話をかけて「おまえが出てきて支えろ」と言います。まあ、雨だしな。濡れたくないのはわかるけど、傘になりたいんじゃなかったのかよ。信用できない。
■花火師なのに天気予報は見ないんだ
花火大会に向けて準備中の職人たち。空を見上げ「嫌な雲だなぁ」「まずいっすね、この風」とか言ってます。
花火師という職業は、花火のプロであると同時に天気のプロです。美しい花火を安全に打ち上げる仕事ですので、当日の天気には最大限気を配る仕事なのです。
「嫌な雲だなぁ」じゃないんだよ。天気予報を見なさいよ。スマホくらい持ってんだろ、最新の天気図を読んで適切な判断をしなさいよ。それは、美しい花火を作ることと同じくらい大切な、あなたがたの仕事でしょうよ。こういうところも信用できない。
結果、このドラマはなんかくだらない言葉遊びで天気を操作し、花火大会を実行させます。信用できないよなぁ。なんだよ、「私が月明りに溶けるってことは月が出るってことだろ、じゃ晴れるだろ」なんてロジックで誰が納得するんだよ。こうやって天気を操作したいから、『君が心をくれたから』は「天気予報の存在しない世界」をいきなり登場させたわけです。こういう創作行為は、極めて卑劣です。卑劣なのよ。
X(旧Twitter)なんか見てると、このドラマを評価している声は少なくありません。気持ちはわかるんです。人の不幸や自己犠牲が描かれれば、そこに共感する視聴者は一定数いるんです。ドラマを見て何も考えずに泣きたいという気持ちもわかる。セロトニンによるリラックス効果は実証されているし、それで見た人がリフレッシュして明日という日を楽しく過ごせるなら、いいことだとも思う。
でもね、そういうドラマという媒体の効用や社会的意義をちゃんと考えている人ほど、こういう卑劣な創作行為には否定的になると思うんですよ。
この卑劣が評価を二分したとき、何が起こるかというと、『君が心をくれたから』を楽しんでいるティーンたちにとってそれが「大人はわかってくれない私たちの物語」に変換されてしまうんです。私のような口汚い大人に、若者たちが耳を貸さなくなるんです。そうして、社会の中に断絶が起こるんです。
じゃこんな悪口書かなきゃいいじゃんって話ですし、大して読まれてないのに大げさなこと言ってんなよって自分でも思うけど、まあ仕事なんでね。いちおう真面目にやりたいんで、すみません。最終回も張り切って見ます。
(文=どらまっ子AKIちゃん)
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