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『不適切にもほどがある!』第6話 タイムパラドックスという「鉄則」に抗う挑戦

第6話 昔話しちゃダメですか? | TVer

 3日放送の『不適切にもほどがある!』(TBS系)は第6話。1986年から令和にタイムスリップしてきたオガワ(阿部サダヲ)が、自分と娘・純子(河合優実)が1995年の阪神・淡路大震災で死んでしまうことを知り、その運命に翻弄されるお話です。

 そのほか、おまけとして昭和と令和のカルチャーがどうしたこうした言ってますが、こっちはあんまり力を入れていないようなので、とりあえず無視して大丈夫そう。何しろ今回のテーマは「令和のおやじは昔話とか自慢話ばっかりするよね」みたいなことでしたが、「年取ったら説教と昔話と自慢話はしちゃダメ」と言ったのは高田純次ですからね。昭和のテキトー男ですよ。

 振り返りましょう。

■楽しくて切なくて

 オガワが令和で出会ったシングルマザー・渚ちゃん(仲里依紗)、実はオガワの孫だったわけですが、それが判明して以降、明らかに渚ちゃんのオガワに対するセリフ回しが変化してるんですよね。なんだかいい感じの年上男性に対する感じから、家族に対する感じになっている。自分と娘が震災で死ぬことを知っているのに気丈に振る舞うオガワを心配そうに見つめながら「ねえ、大丈夫?」って聞くシーンとか、こういうところ細やかに作ってるなと思います。

 令和ではあくまで元気いっぱいのオガワですが、昭和に戻って娘に再会すると、やはり感情的になってしまいます。この娘が6年後に死ぬのか、震災で。その思いは、察するに余りあるところです。

「どうなるかわかってる人生なんて、やる意味あんのかよ」

 タイムスリップをした者は、過去や未来を変えてはいけない。タイムパラドックスが起こってしまうから。それは鉄則です。その鉄則を破る者が現れたら、ドラマが成立しなくなってしまう。

 でも私たち視聴者はもう、オガワと純子に死んでほしくないと思っています。そんなのは悲しすぎるし、切なすぎる。そう思わされる程度にはこの人たちを見ているのは楽しいし、好きになっている。

 じゃあ「過去や未来を変えてはいけない」というその鉄則を課しているのは誰なのか。実際にはタイムスリップなんてことはないわけですから、もちろん現実の何かではない。ドラマを見る上での常識として、勝手に私たちがそう思っているだけなのです。

 しばしばこの鉄則に私たちが納得してしまうのは、多くのタイムスリップを扱った物語では過去や未来を変えることによって誰かが存在しなくなる、消えてしまう、だからやっぱり変えてはダメなんだという設定・人物配置が提供されます。おのずと「絶対に変えられない」状況が与えられ、じゃあどうしようか、という展開になる。

 しかし、『不適切にもほどがある!』では、オガワと純子が震災で死ななくても、決定的に誰かの存在に影響を及ぼすことはありません。オガワの妻(イワクラ)はもう亡くなっているし、孫の渚ちゃんは産まれているし、この悲しい運命を強引に曲げて、2人があの震災を生き残ってしまっても、誰かが消えてしまうようなことはないわけです。

 それなら、変えたっていいんじゃないか? ということをやろうとしてるんだと思うんですよね。タイムスリップドラマの常識に抗う、視聴者が勝手に鉄則だと思っている常識を、疑ってみる。そういう意味で、とても挑戦的な作品だと感じます。

■一方で軽薄で軽率な問題意識の発露

「俺なんて、不適切なことしか言わないぜ?」とオガワは言います。

 しかし、実際に不適切だったのはバスの中でタバコを吸ったり、喫茶店で他人が飲んでるビールを勝手に奪ったりしていた第1話だけでした。今回も昭和に戻って娘に「ブス」とか言ってましたが、もう家庭内だけなんですね。不適切発言を連発して社会をかき回さなきゃいけなかったはずの令和でのオガワは、むしろ平穏かつ事なかれ主義になりつつある。偏屈な脚本家に媚を売って取り入ったり、クイズ番組の収録で自分がコケにされてもヘラヘラしてるし、暴れ出した娘をなだめるし、まったく不適切ではなくなっている。

 その一方で、令和の女性である渚ちゃんとドラマプロデューサー(ファーストサマーウィカ)がオワコン化した人気脚本家を揶揄するくだりは醜悪でした。

 過去作の焼き直しや『ノッティングヒルの恋人』の丸パクリしかできないくらい才能が枯れたことをバカにするくらいはいいんですが、その脚本家が環境問題に傾倒して沖縄に移住したことや、19歳下のモデルと結婚したこと、1年半で離婚したこと、最近は19歳下のインフルエンサーと公私にわたって仲良くしていることなんかを、まるで「不適切」であるかのように小バカにするシーンです。

 別によくね? と思うんですよ。売れっ子作家が沖縄に隠居して好きな女と暮らしてて何が悪いのよ。令和の多様性って、そういう個人の人生は揶揄の対象としていいわけですか?

 この脚本家が打ち合わせで自慢話と昔話を連発してきたことが不快だったようですが、そもそも脚本家がテレビ局に押し掛けてきたわけじゃない。勝手にオファー出して沖縄から呼んで、自分が勝手に描いていたイメージと違うから悪口を言っているだけです。しかも、相手がおじさんだから言いたい放題。例えばドリカムの吉田美和は19歳下の男と結婚してますけど、大丈夫ですか? おばさんにも同じこと言うんですか?(不適切発言)

 本来、この作品の売りだったはずの「世代間ギャップを楽しもうよ」みたいな部分は、回を重ねるごとに軽率に、軽薄になっていきます。このドラマをマジメに見て、マジメに評価していた人ほどバカを見る状況になってる。

 今回、やり玉に挙げられた古株の脚本家には、過去に「どっかの駅前でカラーギャングが暴れてるだけ」のおもしろい作品があったんだそうです。現実にも同じシチュエーションのドラマがありました。ただ鬱屈した若者たちの内面だけを描き、爆発的な輝きを放っていたドラマ。不必要に関係のない誰かをなじったり、バカにしたりするヒマなんかない、パンパンに張り詰めた青春を描いた群像劇。『池袋ウエストゲートパーク』っていう作品なんですけど、本作のプロデューサーさんや脚本家さんはご存じかしらね。

(文=どらまっ子AKIちゃん)

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最終更新:2024/03/02 18:21
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