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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『光る君へ』直秀がまひろを誘い、想像する都の外「かの国」との交易と文化交流

『光る君へ』直秀がまひろを誘い、想像する都の外「かの国」との交易と文化交流の画像1
ドラマ公式Instagramより

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』第8回「招かれざる者」は、まひろ(吉高由里子さん)の父・藤原為時(岸谷五朗さん)になぜか、今頃になって接近してきた藤原道兼(玉置玲央さん)が目立つ回だったと思います。道兼は父・兼家(段田安則さん)の命じるがままに動く存在ですから、昏睡から時折目覚めては威圧するという兼家からの指示通りなのかもしれません。兼家が倒れたのは、「これより帝をお諌めに参る!」と意気込んだ時でした。病床で、どうしたら花山天皇(本多奏多さん)を早期退位に追いこめるかを考えていたとしても、おかしくはないでしょう。

 しかし、ドラマで憎まれ役といえば藤原道兼というくらいの存在だったのに、病床でまともに動けないことにイラついた父親から八つ当たりされたと思しき腕のアザを見せ、しおらしげに振る舞い、醸し出す空気を一変させていた玉置玲央さんの演技はよかったですね。

 また、昼は散楽の役者、夜は盗賊をしている直秀(毎熊克哉さん)にも注目が集まりました。直秀は「都を去る」と発言し、驚くまひろに「一緒に行くか」と語りかけていました。「京都の外には海があり、かの国との商いもある」といったセリフもありました。

 今回は平安時代の京都の貴族たちにとって「かの国」とは、どこを指しているのか、さらに紫式部の時代には外国との交流はどうなっていたかなどについてお話しようと思います。

 日本の朝廷において外国といえば、それは東アジア最大の大国・中国を指していた時代は長かったと思います。はるか古代から、中国との交流を積極的に行ってきたからです。奈良時代・平安時代初期までの隋王朝・唐王朝との交易は特に有名ですね。ドラマでも取り上げられた打毬競技はペルシャから中国を経由し、奈良時代の日本に輸入されたと以前もお話しましたが、唐王朝との約260年間に及ぶ関係も、寛平6年(894年)、遣唐使が廃止されたのに伴って途絶してしまいました。

 遣唐大使・菅原道真が遣唐使の廃止を帝に提案した背景には、勢力が衰えてしまっても傲慢な態度を崩さない唐王朝に、今さら頭をさげてまで付き合ってもらう必要はないという政治的な判断がありました。しかし、中国との関係の希薄化は、これまで中国を通じて輸入できていた、ペルシャなどさまざまな外国からの文物がさらに入手困難になることも意味していたのです。

 ドラマの源倫子(黒木華さん)がかわいがっている小麻呂という猫も、もともとは遣唐使が中国から日本に連れて帰った猫たちの子孫なのかもしれません。一説に、中国から貴重な経典を日本まで運ぶ船旅において、ネズミたちが悪さをしないように猫を飼う風習が遣唐使たちにはあったそうですね。

 唐がついに滅亡するのが延喜7年(907年)。さらに遣唐使廃止後、日本と諸外国の窓口になっていた渤海という、中国東北部から朝鮮半島北部あたりにあった国まで滅亡するのが延長5年(927年)です。

 渤海を滅ぼした契丹という国とは表立った交流がほとんどなく、奈良時代には盛んに交流していた新羅なども、平安時代には関係が悪化、疎遠になったまま、承平5年(935年)に滅亡しました。

 日本史では江戸と平安の2つが鎖国の時代だったといわれますが、平安時代の鎖国は、諸外国との付き合いが疎遠になったり、途絶した結果、事実上の鎖国状態になったというニュアンスが強いのです。

 しかし、ドラマの直秀がいう「かの国との商い」もフィクションというわけではありません。彼のいう「かの国」とは、承平6年(936年)に朝鮮半島を統一した高麗(こうらい)を指すのではないかと思われます。『源氏物語』冒頭にも、高麗から訪れた使節が「高麗人(こまうど)」として描かれ、幼い光源氏の一行が、平安京における外国使節の宿所・鴻臚館(こうろかん)に滞在中の彼らを訪問するシーンがあります(『桐壺』)。高麗人は光源氏の人相を占い、「帝位につけば国が乱れる」などと将来を予言し、結果、光源氏は皇族から臣下の身分に下ったのでした。

 また大陸の治安は唐の滅亡後、混乱状態に陥りますが、天徳4年(960年)の宋王朝の建国とともに落ち着きを見せました。それでも日本の朝廷は、外国との公的な貿易を認めたわけではないのですが、高麗からの使節の珍しい献上品の数々に心ひかれた大貴族たちは、高麗や中国の宋王朝相手に、地方に私有した荘園経由で密貿易を行い、さまざまな「舶来上等」の品物や、質のよい貨幣などを10世紀頃からひっそり輸入していたのです。自分の息がかかった中級貴族たちを国司(地方役人)にするウラの理由もおわかりいただけるでしょう。もちろん私貿易は違法行為でしたが、「私有地」である荘園内でこっそりやる分には見逃してもらえたようです。

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