『光る君へ』まひろと道長の“格差恋愛”の行方と平安時代の“格差婚”
#光る君へ
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
前回(第4回)の『光る君へ』では、五節の舞姫を務めたまひろ(吉高由里子さん)が、三郎こと藤原道長(柄本佑さん)の素性を、偶然、知って卒倒するという場面で終わりました。それまでは三郎(道長)を平民だと信じて疑わないまひろが、自分は藤原為時(岸谷五朗さん)の娘ではあるが、「藤原でもずーっと格下。だから、気にしないで」などと言っていたのですが、真実はまひろの想像を大きく上回っていたようです。
史実の紫式部と道長は、どんな家系に生まれたのでしょうか。紫式部と道長は藤原氏の中でも「北家(ほっけ)」と呼ばれる、一派の出身です。そして、2人とも先祖を6代遡ると、藤原冬嗣(ふゆつぐ)という大政治家にたどり着くので、遠い親戚でした。
しかし、道長が藤原北家の嫡流、つまり本流の家筋に生まれ、時の右大臣・兼家の御曹司なのに対し、紫式部の場合、最後に出世栄達を遂げた記録がある親族は、曽祖父にあたる兼輔(かねすけ)でした。兼輔は元慶元年(877年)の生まれです。記録によると、21歳で昇殿、33歳で蔵人頭、43歳で左権中将にして、国司として肥前守も兼任したとあります。
しかし、その兼輔も従五位の下の官位を得られたのは延喜2年(902年)、数え年で26歳のときでした。道長が従五位の下になったのが15歳でしたから、藤原北家の中でも「本流」と、この時点では「末流」とまではいわないにせよ、「それ以外」の家の出身者では出世速度がかなり異なったことがわかります。
名門の生まれであること、そして、現在でも有力な親族がいるか――それが貴族たちの出世レースに参加できるかどうかの最低条件です。そこに本人の容貌の良さや資質などまで影響してくるため、「親ガチャ」の勝者にして、すべての点で本当に恵まれた、ほんの一握りの者しか成功できない非常に厳しい世界だったことがわかります。
紫式部の血統の特徴としては、文学の才能に恵まれた人が目立つ点が指摘できるでしょうか。彼女の曽祖父・兼輔には『聖徳太子伝暦』という著作があったという説が(真偽はともかく)昭和初期から伝えられています。また、『小倉百人一首』にも「中納言兼輔」の名で「みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ(意訳:みかの原を2つに分けるように、湧いて流れる泉川のごとく、私の心に恋する気持ちが湧き出る。過去に出会っていたと思うほど、あなたには激しい恋心を懐いてしまうのか)」が選ばれていますね。
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