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歴史エッセイスト・堀江宏樹の「大河ドラマ」勝手に放送講義

『光る君へ』東三条に出戻る詮子と彼女を厭う円融天皇の本当の関係

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『光る君へ』東三条に出戻る詮子と彼女を厭う円融天皇の本当の関係の画像1
ドラマ公式Instagramより

 大河ドラマ『光る君へ』、第2回ではついに吉高由里子さんが登場、15歳になったまひろを熱演する姿が見られました。歴史の流れはバックグラウンドに追いやり、キャラクターたちの交流を描く内容が続きそうですね。

 藤原道長役も柄本佑さんに変わりました。後宮の詮子(吉田羊さん)から呼び出しをくらった道長は「仕事中お呼び出しは困ります」とボヤいていましたが、ドラマでは剣や弓の稽古にいそしむ姿は見えても、デスクワークをしている様子はなく、この時期の彼がどういう仕事をしていたのだろうか……という疑問を持った方も多いのではないでしょうか。

 NHKによるドラマ公式解説ページ「君しるべ ~青年貴族・藤原道長の官位とは?
によると、「大河ドラマ『光る君へ』第2回で柄本佑さん演じる若き藤原道長は、従五位下(じゅごいのげ)・右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位に就き、順調に上流貴族としての道を歩み出します」とありましたが、年表に沿って史実を確認すると、道長が「右兵衛権佐」という官位を得たのは、永観2年(984年)2月のことなんですね。

 道長が従五位の下となったのは、それより約4年前、天元3年(980年)1月7日のことです。数え年15歳のときでした。ドラマでは描かれなかったようですが、このおめでたい知らせを受けた直後の同月15日もしくは21日、道長の母・時姫は亡くなっています。思えば第2回、時姫(三石琴乃さん)の出番はありませんでしたが、あれは「そういうこと」だったようです。今後、時姫は回想シーンでのみの登場ということになるのでしょうか……。

 さて、道長が15歳の若さで、従五位の下の官位をいただけたのはかなり幸運なことでした。平安時代の貴族の収入は内訳が複雑なのですが、シンプルにいうと、官位に与えられる「位給」と役職に与えられる「職給」のふたつがあります。具体的な役職はなくても、従五位の下となった道長は位給を受け取れるようになり、その事実は彼が天皇の臣下の1人に認められたことを意味したのです。

 道長は藤原氏の中でも上流の家の生まれですが、その幼少期、彼の父・兼家(段田安則さん)の昇進はライバルたちに阻まれ、かなり停滞していました。道長の2人の兄たちもなかなか出世できない時期が長く、その悪い流れを変えたのが、道長の同母姉・詮子でした。

 詮子は、天元元年(978年)8月に円融天皇の女御(お妃の1人)として入内しました。この後、同年10月10月に、詮子の父・兼家が従二位、右大臣という高い身分、官職を得ています。年若い道長が高待遇を受けられたのも詮子、そして兼家あってのことでした。

 しかし、史実の道長に昇殿の許しが与えられた、つまり天皇のお側にはべることが許される「殿上人」という特別な身分になれたのは、天元5年(982年)1月です。

 また、道長に具体的な官職が与えられたのはその1年後、つまり天元6年(983年)1月で、その時になったのは「侍従」でした。天皇の補佐官というか、わかりやすくいえば「付き人」のような存在でしょうか。

 道長が、「右兵衛権佐」という官位を得たのはさらにその翌年、永観2年(984年)のことで、ドラマでは現代人の目には細々と映るような、年単位におよぶ出世劇はスパッと省略されてしまったのでしょうか(右兵衛権佐の仕事内容については、先のNHKの公式解説サイトをご覧ください)。

 つまり、第2回の道長が「仕事で忙しい」といいながら、勤務実態がよくわからず、トレーニング風景ばかりが映っていたのは、考証サイドの意見を反映してのことなのかもしれません。

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