マヂカルラブリーが漫才論争を巻き起こした「吊り革」ネタをコントにしたら何が起こったか
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先月31日に放送された『エンタの神様 神ネタSP』(日本テレビ系)で、興味深いネタが放送された。マヂカルラブリーの「吊り革」ネタに電車のセットが組まれ、スタジオコントとして披露されたのだ。
2020年の『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)の最終決戦、マヂカルラブリーはこの「吊り革」の漫才を披露し、見事に優勝を飾っている。だが、その直後から「あのネタは漫才か、漫才じゃないか」という議論が巻き起こったことがあった。
2人の掛け合いがないから、漫才じゃない。センターマイクが立っているから漫才だ。その論争は、『M-1』審査員を務めたダウンタウン・松本人志やオール巨人が後日改めてコメントするなど、界隈を大いに盛り上げた。
漫才か漫才じゃないかの論争を起こしたネタを、セットを組んでコントにする。そのアイディアが番組からの指示なのか、野田クリスタルの提案だったのかは定かではないが、これによって「吊り革」というネタに大きな変革が訪れていた。
もともと「吊り革」というネタはマヂカルラブリーの漫才の中でも、異色といえるネタだった。
当の『M-1』で1本目に披露された「フレンチ」、17年のファイナルで上沼恵美子の不評と怒りを買った「野田ミュージカル」、さらにファンの間で傑作とされる「ベランダ」など、マヂカルラブリーの漫才で野田は一貫して「変な人」を演じている。もともと地下の小劇場を中心に活動していた野田の「変なピンネタ」に村上がツッコミを入れるという形は、そのままコンビの成り立ちにつながるスタイルだった。
例えば「フレンチ」では、野田はドアを材木でブチ破り、デモンを召喚し、シェフの心臓をえぐり取っている。見るからに奇抜で、サイコな行動である。
ところが、「吊り革」の野田は、実は普通の人物なのである。野田が市井の一般人を演じているのだ。
「吊り革」ネタにおいて、おかしいのは電車のほうだった。野田がネタ中にやろうとしたことは、吊り革を使わないことだけ。野田のように日ごろからトレーニングをしている人間にとって、吊り革を使わないという習慣は珍しくないだろう。そのほかには、トイレに行こうとしたり、サンドイッチを買ったり、電車を降りようとしたり、ごく普通の行動しかしていない。野田が乗り込んだ電車がむちゃくちゃに揺れる電車だったために、このような普通の行動をしようとしている野田が、大いに振り回されている。
結果、見る側は野田に共感することになる。「自分だって、あんな変な電車に乗ったら、あんな風になりそうだ」と思ってしまう。フレンチを食べに行って心臓をえぐる野田にはまったく共感できなくても、吊り革ネタの野田には共感が生まれるのだ。
その共感が生んだグルーブこそが、あの年のマヂカルラブリーが優勝を手にした理由のひとつだと思っている。
だが、今回『エンタ』でコントセットを組んだことにより、『M-1』での吊り革とはまったく逆のことが起こった。
電車は大きく揺れていない。村上も、おとなしく座っている。そこに野田が乗り込み、『M-1』のときと同じようなムーブをしている。
だが、この野田は市井の一般人ではない。揺れていない電車で1人だけ大きく揺れているのだ。『エンタ』は実に御丁寧な番組なので、右上に「1人だけ揺れてる客」というテロップも表示されている。つまりは、野田は「フレンチ」や「野田ミュージカル」のような、普通のロケーションに紛れ込んだめちゃくちゃ変な人として登場している。『M-1』では共感を呼んだ「吊り革」の野田が、まったく共感できないけど見てて面白い人という「フレンチ」の野田になっているのである。
野田と村上のセリフや挙動は『M-1』の吊り革ネタとほぼ同じであるにもかかわらず、そこにあるのがサンパチマイクかコントセットかの違いだけで、ネタのシチュエーションも人物像も完全に反転してしまっているのだ。
だからどうした、と言われれば、特に何もない。「吊り革」の漫才をコントにするという意味があるのかないのかよくわからない試みを目の当たりにしてみて、意味があるのかないのかよくわからない結論を得た、という話である。そうして、貴重なお正月休みが過ぎていく。
(文=新越谷ノリヲ)
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