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漫才師・島田洋七…紳助に目標にされ、たけしに愛された男の新刊に潜むサプライズ

漫才師・島田洋七…紳助に目標にされ、たけしに愛された男の新刊に潜むサプライズの画像1
島田洋七(撮影=小田駿一)

 お笑い芸人が、テレビ番組の司会やMCを務める。関西で人気の芸人が、東京へ進出する……今では当たり前となっているこうした流れをつくった走りは、漫才コンビ「B&B」だと言っても過言ではない。

 1980年に起きた漫才ブームで一気にスターダムにのし上がるも、ブームの終焉とともに訪れたレギュラー番組の激減。『佐賀のがばいばあちゃん』の大ヒット、 “講演会王”の異名獲得…そんなジェットコースターのような人生を地で行くのが、B&Bの島田洋七さんである。

 そんな島田さんが、人生の裏側で出会った人々とのエピソードを綴ったのが「週刊実話」(日本ジャーナル出版)で連載中の『お笑いがばい交遊録』。11月には同連載に加筆修正を加えた『お笑いがばい交友譚』(同)が発売された。

 筆者は、同連載を約2年半に渡り担当したのだが、いくつか驚いたことがある。まず、洋七さんは家出同然で大阪へ出て、吉本興業の舞台に出会うまで、漫才や落語をほとんど見たことがなかったというのだ。花月で、やすきよ(横山やすし・西川きよし)さんや笑福亭仁鶴さんが会場を爆笑の渦に包み込む姿を見て、芸事が簡単に思えて漫才師になったそうである。実際、洋七さんは「本当に凄い芸は、簡単そうに見える」とよく口にしている。

 次に驚いたのが、東京にまだ吉本興業の支社がなかった1970年代後半に東京進出を決意。吉本を辞めて、東京進出を果たしたことだ。当時、関西発の番組は、関西地区以外で見られないケースがほとんど。自身が活躍する姿を見せるために、おばあさんやお母さん、友達が住む、佐賀や広島で放送される東京の全国放送の番組に出演したかったからだという。

 一念発起での東京進出後に起きたのが、漫才ブームという名の社会現象。そのブームの先頭に立ち、一躍その名を全国に知らしめたのが、B&B、姉弟子である今いくよ・くるよ、弟弟子である島田紳助さんらの紳助・竜介ビートたけしさんらのツービートオール阪神・巨人ザ・ぼんちのりお・よしお(西川のりお、上方よしお)だ。

 その漫才ブームの勢いは凄まじかったらしい(筆者はまだ3~4歳の頃なので覚えていない)。B&Bは、最盛期にレギュラー番組を13本抱えていた上、ほとんどの番組で司会を努めた。

 それまで、テレビ番組の司会はアナウンサーの仕事と相場が決まっていたらしいが、漫才ブーム、そしてB&Bが現在のお笑い芸人の活躍の場を広げたとも言える。

 その最たる例が、『笑っていいとも!』の前身番組『笑ってる場合ですよ!』の司会に抜擢されたこと。また、ザ・ぼんちは単独ライブを日本武道館で開催し成功させ、アイドル的人気を誇った。来年、オードリーが「オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム」を開催する中、「武道館かい!」とツッコまれそうだが、現在と当時では漫才師を取り巻く環境は大きく違っていたという。

 島田紳助さんが、洋七さんの弟弟子であることを知っている人も案外少ないだろうが、本書には紳助さんとの若かりし日々のエピソードが掲載されている。テレビでB&Bの漫才を見た紳助さんは、「B&Bの島田洋七を倒すことに青春を捧げよう」と考え、洋七さんと同じ島田洋之助、今喜多代師匠の弟子になった。洋七さんは、紳助さんのことを本当の弟のような存在だと語っている。

 また、漫才ブームの頃から仲良くなったのが、長年の親友となるビートたけしさん。

 1986年にたけしさんらがフライデー襲撃事件を起こすと、たけしさんは謹慎生活に入った。その間、沖縄の石垣島でひっそりと過ごしていた時期に、同島の海岸で交わした、笑いあり、涙ありのエピソードが本書には収められている。その後、レギュラー番組が少なくなっていた洋七さんは、週に数回たけしさんの家で得意の料理を振る舞い、半同棲生活を送っていた。

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