『M-1グランプリ』漫才頂上決戦を彩ってきた歴代事件簿【2001-2004】
#M-1グランプリ
週末に迫った漫才頂上決戦『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)。今回で19回目となるが、2001年のスタート以来、さまざまなドラマを生み出してきた。
今回は、そんな『M-1』の歴史を眺めながら、各大会の象徴的な“事件”を振り返ってみたい。
■2001年 第1回大会
トップバッターで登場した吉本興業の雄・中川家がファーストラウンド最高の829点を叩き出し、そのまま最終決戦へ。その後、9組目まで500~700点台が続き、10組目のハリガネロックが809点で対抗馬に名乗りを上げた。
当時の最終決戦は2組の直接対決。中川家が6-1で制し、初代王者に輝いた。
・審査員が怖い、スタジオが暗い
松本人志もまだ38歳。今のジャルジャルより若い年齢である。ラジオ番組『放送室』がスタートした年といえば、どれだけ若かったかわかるだろう。
当然、現役感ビンビンでトガり散らかしており、他の審査員も含めて緊張感が漂っている。出場者同士も現在のような仲間意識は皆無で、中川家・礼二によれば、終了後すぐに審査員にダメ出しされ、打ち上げも敗者が出席するような雰囲気ではなかったという。
当時の『M-1』を指して「50点が連発していた」ともよく語られるが、実際、松本人志がチュートリアルに50点、島田紳助がおぎはやぎに50点を入れている。怖い。
・麒麟枠
当時まったくの無名だった麒麟が決勝に進出。ここから数年、ダークホースを指して「麒麟枠」と呼ばれるようになる。松本が麒麟に自己最高の75点(自己最高で75点ですよ!)を入れて支持したが、得点は伸び悩んだ。このときの松本の「僕は今まででいちばんよかったですねえ、なんとかならないんですかねえ」という言葉が、翌年の麒麟にとって大きなプレッシャーとなることに。
・おぎやはぎ9票事件
審査員7名に加えて、札幌、大阪、福岡の各会場で100票が満票の一般投票が実施されたが、おぎやはぎの大阪票が9票しか入らず、スタジオを混乱に陥れた。当時東京を拠点としていたDonDokoDonにも大阪票は18票しか入らず、露骨に関西拠点の芸人に有利な結果が出たことで、一般投票の採用はこの年だけで打ち切られている。
■2002年 第2回大会
2番手のますだおかだが612点でトップに立つと、5番手のフットボールアワーが621点で逆転。6番手の笑い飯が567点で続き、3組の最終決戦へ。5票を獲得したますだおかだに軍配が上がり、増田英彦は大粒の涙を流した。
・ますだおかだについてのあれこれ
前年の第1回から出場しているますだおかだは松竹芸能の所属。吉本興業が中心となって立ち上げた『M-1』に当初、松竹側は所属漫才師の参加をためらったが、ますだおかだは「M-1に出られないなら松竹を辞める」と言って事務所側に出場を直談判したという。
そのますだおかだについて、第1回をラストイヤーで制した中川家と、その同期の海原やすよ ともこがたびたび「先輩やのに第2回に出てた」と言っているが、何を言っているのかよくわからない。
・談志師匠、怖すぎ
黄色のマフラーをぐるぐる巻きにして、めっぽう厚着で初登場した立川談志。紹介時からニコリともせず、実に不機嫌である。
初審査コメントとなった1番手のハリガネロックに対しては「いやあもうプロだから、いいんじゃないですか?」と仏頂面のままベタボメ(?)。その後もネタ中に何度かカメラに抜かれるが、まったく笑っていない。
そして4番手のテツandトモのネタ後に、事件は起こる。70点と、談志にしては高得点を入れていたが、コメントを求められると「おまえらここに出てくるやつじゃないよ、もういいよ」と一刀両断。会場の空気が凍り付く。テツの長い顔が歪んでいる。続いて「ホメてんだぜ、わかってるよな」とテツandトモを指さすものの、赤ジャージと青ジャージの2人はどう見てもわかってない顔で笑みを浮かべるしかなかった。
実際、テツandトモの2人は漫才から演芸に活動の場を移し、このとき披露した「なんでだろう」を毎年バージョンアップさせながら活躍し続けている。
ちなみに談志は敗者復活のスピードワゴンに最低点である50点を献上。「うーん、悪かったなぁ、悪かったよ」と、こちらは火の玉ストレートのコメントだった。怖い。
■2003年 第3回大会
前年準優勝のフットボールアワーが貫禄を見せ、ファーストラウンドをトップ通過。最終決戦でも笑い飯を4-3で振り切って念願の優勝を果たしている。敗者復活で上がってきたアンタッチャブルが3位に滑り込む健闘ぶり。その敗者復活の発表の際には、同じ人力舎のおぎやはぎ小木博明がアンタッチャブルの2人以上に大喜びしている映像が残っている。
・全体的にポップになった
MCがこの年から今田耕司に。審査員席も談志からナンチャンに交代し、大会全体がポップな印象になってきた。それでも、麒麟・川島が後日語ったところでは「今の『M-1グランプリ』とは重力が違う」「普通の人は立っていられない」と語るなど、まだまだ緊張感は残っている。その緊張感が、以下のエピソードにつながったか。
・伝説の3スベリ
トップバッターの千鳥、2番手の麒麟、3番手のスピードワゴンが連続でややウケとなり、後に本人たちが「伝説の3スベリ」と呼ぶ現象が発生。早々に暫定席から姿を消すことになった千鳥・大悟が「これが最後のテレビになるのかな~」と言いながらピースサインをしている姿は、『M-1』史上でも屈指の名シーンとなっている。最後どころか20年後には千鳥の天下だ。
・奈良歴史民俗博物館
2回目の登場となった笑い飯の名を全国に知らしめた名作「奈良歴史民俗博物館」が披露されたのも、この年だった。このネタでダブルボケという概念を完全に定着させ、笑い飯ここにありを示した歴史的瞬間である。島田紳助は99点を与えている。
■2004年 第4回大会
前年の敗者復活で名を挙げたアンタッチャブルが当時の歴代最高得点673点を叩き出し、初の関東コンビの優勝となった。『M-1』開始当初は東京に大会で通用するレベルの漫才師が数えるほどしかいないと運営側から困惑の声も聞こえたが、開催からわずか4年で関西の漫才師たちをブチ抜いていった痛快な大会だった。
・紳助さんも松本さんもいない
『M-1』史上初めて島田紳助と松本人志が欠席している。紳助はこの年の10月に吉本の女性マネジャーに暴行したとかで活動自粛中、松本は、公には浜田雅功の『ジャンクSPORTS』(フジテレビ系)との裏かぶり避けと発言しているが、紳助の自粛についてゴニャゴニャあったのではないかともいわれている。
大会の最重要人物2人が不在となったわけだが、今田の安定したMCもあって、大会自体の雰囲気が大きく変わるといったこともなかった。
・関西弁が3組しかいない
アンタッチャブルの優勝に加え、この年、関西弁で漫才をするコンビは、千鳥、麒麟、笑い飯の3組のみ。残りの6組が標準語という逆転現象が初めて起こった年でもある。中でもPOISON GIRL BANDの登場は「新しい東京の笑い」を決定的に印象付けることになり、多くの後進を生んだ。
・南海キャンディーズという衝撃
史上初の男女コンビとしてファイナルに進出してきた南海キャンディーズが抜群のインパクトを残した。誰も見たことのないビジュアル、体格バランス、ワードツッコミ、なんかオシャレなスカーフ、そのすべてが新鮮に映り、しずちゃんが「火を怖がるサイ」になった瞬間、笑いが爆発した。後に、南海キャンディーズの直前に登場したトータルテンボスは「俺たちがやりたかったことをやられた」と、その勢いに舌を巻いていた。
(文=新越谷ノリヲ/【2005-2007】に続く)
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