中川家と海原やすよ ともこを放逐した2丁目劇場「漫才禁止令」の功罪
#中川家 #海原やすよ ともこ
「意味わからんやろ」
中川家・剛は顔をしかめる。
「漫才やりたい言うてんのに、漫才やったらあかんねんで」
海原やすよはあきれ返って笑うしかない。
1997年、吉本興業の心斎橋筋2丁目劇場では「漫才禁止令」が発動されていた。
* * *
23日放送の『やすとものいたって真剣です』(ABCテレビ)に、漫才師・中川家がゲスト出演。MCの海原やすよ ともこと真剣トークを繰り広げた。
中川家はNSC11期生、やすともは中田ボタンの弟子と、芸人としての出自こそ違うものの同期である2組。ともにきょうだいコンビであり、20年3月には同時に吉本の“新看板”に就任するなど、デビュー当時からしのぎを削り合ってきただけに、語られた歴史はそのまま関西のお笑い30年史とも言えそうな内容だった。
中でも2組のトークに熱が入ったのは、97年に2組が出演していた心斎橋筋2丁目劇場で突然宣言された「漫才禁止令」。その名の通り、「2丁目のレギュラーライブでは漫才をしてはならない」という、今では考えられないルールだった。
「必然的に(2丁目から)出るしかないやんね」(やすよ)
多くの若手芸人が「漫才禁止令」に従ってコント中心の活動にシフトする中、中川家とやすともは漫才を貫くために2丁目劇場を去ることになる。そして、客数が10人にも満たない「うめだ花月」の昼出番以外の仕事を一切失う。当の2丁目劇場が女子中高生のファンであふれ返っていた時代の話だ。
そもそも「漫才禁止令」が出された背景には何があったのか。
当時を知る関係者の話を総合すると「漫才の質の低下に尽きる」という。
若い女性ファンが客席のほぼ100%を占める劇場では、芸人が何をやってもウケてしまう。漫才でも、フリの段階や甘噛みでウケてしまう。逆に本ネタはファンに覚えられてしまい、ウケが弱くなる。徐々に芸人は漫才を作り込むことをあきらめ、適当なエピソードやフリートークばかりを披露するようになる。そちらのほうがウケがいいからだ。2人で舞台に出てきてダラダラとしゃべって帰るというスタイルへの憧れ、つまりはダウンタウンの影響も多分にあったのだろう。
「漫才禁止」を掲げた2丁目劇場は99年3月に閉館。所属芸人は同年9月にオープンしたbaseよしもとに引き継がれていく。
2丁目劇場の「漫才禁止令」は、関西における漫才の衰退に大きな影響を及ぼしたといわれている。漫才師たちは活動の場を奪われ、解散に至った有名コンビもいた。
漫才は年寄りのもの。そういえば昔、漫才ブームというものがあったらしい。現代はコントが主流。『ごっつええ感じ』(フジテレビ系)、おもろいやん。
2丁目劇場の「漫才禁止令」は、関西の漫才文化を一度殺しかけた。関東にはそもそも、漫才文化などなかった。
その漫才の状況に危機感を抱いた吉本が、漫才の復興をかけたキャンペーンを行うことになった。そして、そのキャンペーンから、新しい新人漫才コンテストが誕生する。「漫才禁止令」から4年、あの日、2丁目劇場からほうほうのていで逃げ出した漫才師が、そのコンテストの初代王者となる。
そのコンテストの名は、『M-1グランプリ』という。
(文=新越谷ノリヲ)
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