【書評】『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』
#ボクシング #井上尚弥 #怪物に出会った日
『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)
森合正範・著
唐突だが、プロボクシングの世界タイトルマッチは入場チケットが高い。ほとんどの興業でリングサイドは5万円。そこから3万円、2万円、1万円と刻まれていく。2万円以下のチケットになると、リングを直接見るかモニターで観戦するか、悩むくらいの距離になる。
それだけの価値があるのか、後悔をしないのかと問われれば、後悔こそないものの、ちょっとどうなのよと思う興行も少なくない。そんな中、ダントツに満足してホクホクで帰宅した試合が、この本の冒頭に描かれる井上尚弥vsファン・カルロス・パヤノの横浜アリーナ、2018年10月7日のWBSS1回戦である。ちなみにこの興行、メインイベントの試合時間もダントツで短い。わずか70秒だ。試合開始から70秒後、パヤノは仰向けにひっくり返って両脚を痙攣させていた。大きく踏み込んでワンツーを一閃。井上はこの日、このワンツー以外、ひとつも拳を振っていない。あの試合から5年たった今でも、ノックアウトの瞬間を思い浮かべるだけでまだ味がする、そういう試合だ。
私のような一介のボクシングファンでも、大きな試合の後には周囲から問われることがある。
「井上って、何がすごいの?」
ファンは気楽なものだ。質問相手の雰囲気と素性に合わせて「全部のレベルが違うねんよ!」とか「あれこそがセンス・オブ・ワンダーだね」とか言っておけば、それで済む話だ。記者ならそうはいかないのだろう。「井上って、何がすごいの?」という疑問を咀嚼して言語化するために、井上に負けたボクサーたちに会いに行くというのである。まったく、頭の下がる話だ。
かくして、森合正範の旅は始まる。
ルーキーだった井上と拳を交え、「井上と戦うなら今しかない。来年、再来年になったらもっと化け物になる」という名言を残した佐野友樹を訪ねた名古屋を皮切りに、森合の旅は遠くメキシコ、アルゼンチンに至る。世界的なレジェンドボクサーたちから、公式戦では井上との対戦記録がないスパーリングパートナー、さらにはその周辺の親族、チームスタッフにまで取材は及ぶ。
印象的な描写がある。筆者は何度も井上自身にインタビュー取材を行っているが、井上は次の試合の相手が強ければ強いほど饒舌になり、楽しそうにその展望を語るのだという。
もうひとつ、メキシコやアルゼンチンで訪ねたボクサーたちが、現地コーディネーターが驚くほどの長時間にわたって取材に応じたのだという。通常なら20分か30分、今回は数時間。その理由は「井上についての取材」だから。ボクサーという生き物は、やはり強いボクサーが好きなようだ。
「井上って、何がすごいの?」
結局のところ、直接対峙したボクサーたちの答えも、ファンと大差ないものではある。「全部のレベルが違う」としか言いようがないのだろう。
井上尚弥のボクシングは、対戦相手のすべてを奪い去っていく。悲しいくらいのウィナー・テイク・オール。敗者には何もくれてやるな。それがボクシングの世界の鉄則だ。
だが、あの日、布切れのように崩れ落ちた前王者も、ガードの上から吹き飛ばされた世界1位も、確かにボクサーであり、人間だった。この本に描かれているのは、その井上でさえも決して奪い去れないボクサーたちの人生の証明が半分、もう半分は井上と戦うことによって彼らが得た、かけがえのない財産だった。歴史上、世界中のすべてのボクサーは、井上と拳を交えた経験があるか、ないかで二分することだってできる。その希少な証言を、井上尚弥というボクサーのキャリアが太陽のように照らしている。
(文=新越谷ノリヲ)
サイゾー人気記事ランキングすべて見る
イチオシ記事