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稲田豊史の「さよならシネマ 〜この映画のココだけ言いたい〜」

『バービー』男女入れ替え逆転構図の妙

『バービー』男女入れ替え逆転構図の妙の画像1
映画『バービー』公式サイトより

※本稿にはラストシーンに言及する記述があります。

女性が被る理不尽の的確な言語化

 『バービー』が非常にすぐれた知的風刺コメディであることは論を俟たない。男性中心社会で虐げられる現代女性の理不尽を告発し、ジェンダーの呪いと洗脳を解く物語。それをバービー人形という、「長年、女性の理想的外見を女の子たちに押し付けてきた罪を背負っている(ただし現在は違う)商品」の実写化によって綴る野心的な試み。冒頭、『2001年宇宙の旅』のパロディで少女たちが赤ちゃん人形を叩き壊して巨大なバービー人形に魅了される出会い頭から、早くもその意気込みが伝わってくる。劇映画というより寓話の形を借りた批評コンテンツ、という形容がしっくりくる。

 物語はバービー(マーゴット・ロビー)やその仲間(名前は皆バービー)、そしてバービーのボーイフレンドであるケン(ライアン・ゴズリング)たちが住んでいるバービーランドと、現実の街であるLAの2箇所で展開する。前者は朗らかでキラキラした女性中心社会の、後者は現実の男性中心社会の象徴。バービーとケンはその対照的な2箇所を行き来することで、価値観のギャップに驚き、傷つき、翻弄され、あるいは影響される。

 男性中心社会で女性が被る理不尽は、LAのマテル社(バービー人形の販売元)に勤務する女性・グロリア(アメリカ・フェレーラ)が物語中盤で発する長台詞の抗議によって、的確に言語化される。言うなれば『82年生まれ、キム・ジヨン』的な切実さだ。

 その言語化の後、返す刀で展開されるマチスモ(男性優位主義)批判は実に痛快だ。女性にフォトショップの操作を偉そうにレクチャーし、映画『ゴッドファーザー』のうんちくをたれ、投資について得意げに解説する男たちのマンスプレイニングぶりを笑う。デカい車や筋肉やギター弾き語りで女を魅了しようと必死な男の滑稽さを笑う。自尊心と嫉妬心に振り回される男性性のダサさを笑う。彼らの序列争いのくだらなさや幼稚さを笑う。

 ただし本作は、「虐げられた女性たちが男どもに一泡吹かせる」といった単純な物語ではない。込められた真の批評性はその先にある。男性であるケンの抱えるアイデンティティの問題だ。

マチスモに魅了されるケンが示すもの

 バービー人形の商品展開において、ケンは「おまけ」である。いてもいなくてもいい添え物。したがってバービーランドにおけるケンにも仕事がなく、ただビーチにいるだけの役割しか与えられていない。バービーランドという社会では軽視された存在だ。皆一様に「ケン」と名付けられているその他の男性たちも同様である。対照的に他の「バービー」たちは様々な仕事をもっている。

 ケンはバービーと現実世界のLAに行って衝撃を受ける。そこでは男性が社会を動かしているからだ。ビッグマネーを動かしているのは男性だし、デカい車に乗りジムで筋肉を鍛えて自信満々に街を闊歩しているのも男性。何より、女性が自分に敬語で話しかけてくれたこと、男性であるというだけでリスペクトしてくれた(と感じた)ことにケンは感動する。マチスモに魅了され、「男であること」に自信をつけたケンは、その価値観をバービーランドに持ち込み、マッチョな言動とライフスタイルに喜びと快感を見出し、他のケンたちの賛同を得る。幸福感に包まれた彼らは、やがてバービーたちと対立するのだ。

 しかしよくよく考えてみると、これは現実社会で女性が不当な扱いを受けている状況の男女を入れ替えた逆転構図である。よしながふみの漫画『大奥』の批評的アプローチに近い。男女の立場を逆転させたことによって、問題の本質が明らかになってくる寸法だ。

 バービーに責められたケンが「君こそ僕をダメにした」と反論するシーンでは、有能な女性が家庭に囲われることでスポイルされてしまう状況を連想するし、バービーたちの策略でケンたちが同じ男性同士で潰し合うのは、本来は連帯すべき女性同士が“男性社会の画策によって”いがみあわされてしまう状況に似ている。いずれも男女の配役を交換すれば一発理解だ。

 極め付きはバービーの意気消沈ぶりだ。それまで女性中心社会、ユートピアのようだったバービーランドにマチスモ的価値観がはびこり、有能な職業人だった他のバービーたちが次々と男たちのマスコットになっていく状況を前に、彼女は言う。「ここは完璧だった」「変化はイヤ」と。女性の発言力と影響力が強まる現実の男性優位社会で一部の老害おじさんたちが心の中で叫ぶ「変化はイヤ」が、見事に重なる。

露呈する男女の非対称性

 劇中、ある人物は、人間が男社会やバービーを作るのは過酷な現実を乗り切るため、といった主旨のことを言う。「男社会」と「バービー(ワールド)」は、ここにおいて並列されている。裏を返せば、両方とも別々の意味で虚構的・逃避的なユートピアである、というわけだ。

 本作は単なる女性側からの感情的な文句を並べた映画ではない。男性優位社会にはもちろん、(虚構の)女性優位社会に対しても、きわめて公平に批判的視線が投げかけられている。

 ケンが敗北してバービーランドが元通りになった後、バービーはケンに言う。「軽く扱ってごめん」と。一方のケンは、いつもバービーが主体で自分は添え物であり、独立的に存在できない自分の不甲斐なさを嘆く。そんなケンにバービーは、ケンとは何者なのかを見つける時なのではないかと言う。

 一見して、バービーが過去のケンに対する振る舞いを「改心」してケンが「真のTo Do」を発見したかのように見える、つまり一件落着に見えるが、もしこのシーンの配役が男女逆だったら印象は変わる。長年添え物扱いされアイデンティティを剥奪された女性が、男性から軽めに謝罪された後、「君が何者かを見つける時なのでは」と言われたら? 「お前が言うな」だ。

 ここには、男女逆転構図で問題の本質をあぶり出しながら、しかし男女の置かれた立場はいかんともしがたく非対称であるという現実が浮き彫りにされている。物語を単純なポジショントークや異議申し立てに矮小化しない。議論の帰着ではなく開始を告げる。見事な批評的手付きだ。

ラストシーンと津田梅子

 すべてが解決した後、バービーは虚構的・逃避的なユートピアであるバービーランドを離れて現実世界の住人になる。ラストはバービーが満面の笑みで「婦人科を受診に」行くシーンで終わる。受診理由について特に説明はないが、(劇中でバービー自身が言っていたように)玩具として性器を持たなかった彼女が現実世界の住人として性器を持つことになり、ようやく“本物の女性性”を獲得した――という祝福的な解釈をするのが妥当だろう。

 ちなみに、件の男女逆転SF時代劇である『大奥』は、ざっくり言えば「子づくり」と「世継ぎ」をめぐる物語だった。史実の徳川家と同様、子ができないことで政情が揺れ、世継ぎ問題で権力争いが繰り広げられる。そこで常に犠牲になるのは、「母=子を産む機械」として期待されていた“女”将軍たちだったのだ。

 そんな「子づくり」をメインプロットとする『大奥』の最終話には、岩倉使節団に参加する6歳の津田梅子が登場する。後に日本の女子教育の先駆者にして津田塾大学の創設者となる彼女の登場をもって、「喜ばしき女性活躍」を読者に予感させるラストだった。

 その津田は生涯独身を貫いた。子を産まない人生を選択した。一方のバービーはラストで子を産む機能を――あくまで機能のみを――獲得した。バービーはこの先、どのような選択をするのだろうか? それこそ議論の帰着ではなく開始のゴングが鳴り響いて、物語は幕を閉じる。

『バービー』
監督:グレタ・ガーウィグ
脚本:グレタ・ガーウィグ、ノア・バームバック
出演:マーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング
2023年製作/114分
配給:ワーナー・ブラザース映画
公開中
©2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.

稲田豊史(編集者・ライター)

編集者/ライター。キネマ旬報社を経てフリー。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)が大ヒット。他の著書に『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新書)、『オトメゴコロスタディーズ フィクションから学ぶ現代女子事情』(サイゾー)、『「こち亀」社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)などがある。

いなだとよし

最終更新:2023/08/16 08:32
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