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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 宮崎駿が『もののけ姫』に仕込んでいた思い
今週の『金曜ロードショー』を楽しむための基礎知識69

宮崎駿監督、26年前の『もののけ姫』ですでにメッセージを仕込んでいた

『もののけ姫』に仕込まれた宮崎駿のメッセージ「生きる」の原点の画像1
金曜ロードショー『もののけ姫』日本テレビ 公式サイトより

 宮崎駿監督最新作『君たちはどう生きるか』(爆発的大ヒット上映中!)公開を記念して、日本テレビ系『金曜ロードショー』では、3週連続スタジオジブリ特集中。最後を飾るのは公開当時、日本の歴代興行記録を塗り替えた『もののけ姫』を放送。人に見捨てられた者たちが、それでも力強く生きていこうとする様を描いた超大作。

 東と北の間に位置するエミシの村で育った少年アシタカは、村を襲う巨大な猪神・ナゴの守を撃退するが、ナゴの守は何者かに鉛の礫を撃ち込まれたことで人への憎しみを抱き、タタリ神となっていた。アシタカはタタリ神を倒した代わりに、右腕に呪いを受けてしまう。村の巫女、ヒイ様からタタリ神の呪いを解くことはできないと諭され、占いに従って西へ向かえと告げられる。

 追われるように村を去ったアシタカは、戦に巻き込まれた村人が略奪、虐殺されているのを見たために巻き込まれる。呪いで疼く右腕で放った弓矢は凄まじい強弓となって、侍の両腕や首を吹き飛ばすのだった。

 川に流された男たちを行きずり上げ、助けることになったアシタカは対岸に山犬と毛皮を纏った仮面の少女の姿を見る。

 森の精霊、コダマの道案内を受けて進んだ先で、金色の鹿、シシ神を見たアシタカの右腕の呪いは激しく疼きだすのであった。

 森を抜けた先にあるタタラ場は、エボシという女傑が様々な事情で住む場所を追われ、行き場のない者たちを強固な統率力で纏めている集落であった。エボシは村の女たちに鉄を作らせ、生きるために自然を破壊するタタラ場の者たちは森に住まう猪神や犬神らと争っていた。エミシの村を襲った猪神の礫も、エボシが撃ち込んだものだった。

 夜、タタラ場を「もののけ姫」が襲う。その正体は犬神に育てられた少女・サンであり、アシタカが谷川の対岸で観た仮面の少女であった。互いを仲間の仇と狙うエボシとサンを見て、憎しみあうより、分かり合う道を模索しようとするアシタカは二人の間に割って入り、サンを救い出すが重傷を負ってしまう。

 森にたどり着くもアシタカは力尽きる。サンはアシタカをシシ神に会わせ、シシ神が彼の傷をいやすのを見て、命は取らないと決める。

 森の神と人の共存を望むアシタカが苦悩する中、シシ神の持つ不老不死の力を狙う者たちが暗躍を始めていた。

『もののけ姫』は一般にいうところのヒロイック・ファンタジーの形を借りながらその実、反骨精神の塊溢れる演出によって、登場人物たちがタタリや呪いに逆らい、過酷な運命に抗い力強く生き抜こうとする物語だ。

 冒頭、エミシの村に住むアシタカはタタリ神を殺したことで、呪いを受けて村を追われる。陰湿な描写が抑えられているため、冒険の旅に出るかの様に描かれるが、許婚の少女が見送りは禁じられているにも関わらず、禁を破って大切な小刀を渡すあたりに「追放」であることがわかる。エミシとは大和朝廷との争いに敗れて国を追われ北に逃れた蝦夷のことだ。

 アシタカが辿り着くタタラ場とは砂鉄から鉄を取り出す、製鉄所のこと。劇中で描かれるような鞴を「たたら」と呼ぶので「たたら製鉄」と呼ばれる。

 この製鉄法は日本の古代から近代まで行われていたが、近代になって西洋の製鉄技術が輸入されるとたたら製鉄は廃れ、日本では島根県の菅谷たたら山内のみが当時の姿のまま残っているに留まっている(ここがタタラ場のモデルになった)。

 タタラ場では砂鉄を溶かすために、一度火を起こすと数日に渡り火が落とせない。男でも辛い仕事をタタラ場では女性たちがやっている。現実のたたら製鉄では作業場に女性が入ることはなかったというが、タタラ場では女たちが男顔負けの労働をこなし、男たちを尻に敷いている。

 タタラ場を纏めるエボシは『ナウシカ』のクシャナ殿下をさらにカリスマ化したような人物で、戦争によって人買いに売られた女たちや、感染症のため住む場所を追われた、「差別されたものたち」に救いの手を差し伸べている。

 タタラ場の住民から崇められているエボシだが、彼女は生きるために自然を破壊し、それがために猪神や犬神たちと血を見る争いを繰り広げている。生み出された鉄は戦争の道具になっている。それを使えば行き場を無くす者たちが、また生まれるのに。エボシの行動は矛盾しているが、それでも生きていかねばならない。

『もののけ姫』は『風の谷のナウシカ』のやり直しだともいわれる。

『ナウシカ』では自然との共存を目指そうとするクライマックスを宮崎監督が上手くまとめることが出来ず、ヒロインが犠牲を払って奇跡が起きるという、曖昧な結末にしていた。

 この結末を当時の宮崎監督は悔いていて、漫画版で納得のいく結末にしているが、それでも満足できずに10数年をかけて『もののけ姫』でやり直している。

 アシタカは自然の神々と人間が共存すればいいと理想を述べるが、自然を破壊し、生きるために神すらも殺そうとする人間の暴力の前にはちっぽけな理想など吹き飛ぶ。森林を切り取る人間に犬神達が牙を剝くと、その怒りを鎮めようとして人間たちはいけにえを投げ込む。それが人に捨てられた少女サンだ。

 生きるためと称して他人の犠牲を強いる、獣にも劣る人間と神々がどうして共存できるのか。『ナウシカ』のような犠牲を払っても奇跡は起きない。犠牲では何も救われない。新たな犠牲と憎しみが生まれるだけだ。

 シシ神は首を取られ、デイダラボッチと化してあらゆる生命を吸い取る呪いをまき散らす。アシタカとサンによって首は取り戻されるが、シシ神はそのまま消滅、最後の力で風を巻き起こすと一度死に瀕した大地は再び生を取り戻す。生と死の再生産が行われる。自然を破壊した人間たちが長い時間をかけて山の自然を取り戻したように、循環の中で人間は生きているのだ。

 人と神の争いは終わったが、サンの憎しみは消えない。アシタカの呪いは解けたが、その痕は残り、エミシの村に帰ることはもう叶わない。それでもかまわない。サンは森で、アシタカはタタラ場で、それぞれが共に生きようと。

『もののけ姫』の主要登場人物らは、皆、罪や呪いを背負い、居場所を追われた者たちだ。絶対の正義などどこにもない。普通の物語なら最後まで生き抜いたものが絶対の正義であり、勝利者のはずだ。『もののけ姫』はそうではない。正義でない者たちが矛盾に苛まれ、苦しみながらも生きていく。美しくもない、つらい事だらけの世の中をそれでも生きていく。

「生きる」ということへの痛切な問いかけとなった『もののけ姫』。今思えばこの時点で宮崎駿監督は「君たちはどう生きるか」と観客に問いかけていた! あれから26年。若者に生きることの意味を問わずにはいられない宮崎監督のメッセージの原点がここにあった。

しばりやトーマス(映画ライター)

関西を中心に活動するフリーの映画面白コメンテイター。どうでもいい時事ネタを収集する企画「地下ニュースグランプリ」主催。

Twitter:@sivariyathomas

しばりやとーます

最終更新:2023/07/21 19:00
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